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2005.09.12 浅井 長政
信長の妹婿であった浅井長政のことでも書いてみよう。

浅井 長政

生没年:1545年~1573年

父:浅井久政
母:井口守隆の娘。

兄弟:浅井政元

正室:
六角氏の家臣平井定武の娘。

市 ―
織田信長の妹。信長の死後、柴田勝家の妻となる。
勝家が秀吉に敗れたとき北の庄にて、勝家と共に自刃。


・茶々
後の淀君。豊臣秀吉の側室となり、鶴丸、秀頼を生む。

・初(常高院)
従兄弟の京極高次に嫁す。高次との間に子はなく豪と秀勝の娘を養女としたという。
高次の死後はよく京極家を守り、豊臣と徳川の橋渡しもしたとされる。

・豪(於江与とも)
母の姉の子である佐治一成の室となるが、後離別。
豊臣秀吉の命令で豊臣秀勝の元へ嫁ぎ2女を生んだが死別する。
この後、家康の子の秀忠に嫁し、家光や忠長、千姫、和子などを生む。

・万福丸
長政の嫡子。小谷落城時に一度は逃げ延びたが、捕らえられ処刑されたという。

・万寿丸
僧侶となり近江長沢村、福田寺住職になったという。

浅井氏
元は正親町三条内大臣実雅(藤原氏)の男公綱(政氏、氏政とも)が罪を得て近江に流され、浅井群丁野に移住。
公綱が許されて京へ戻った後も、その子・新左衛門重政(公雅とも)が丁野に残り、地名・浅井を家号とした。ほか、近江の在地豪族とも云われる。
そのためそのとちの守護職である京極家に仕えた、とされる。
浅井亮政のとき北近江の守護大名、京極氏のお家騒動の中で、北近江の豪族・浅見氏を盟主とした国人衆をもって京極家の家政体制を強いた。
が、浅見氏の専制が強まったため、これを討ち京極氏を傀儡化させ、京極氏の有力家臣をも従え戦国大名へと成長していった。
その後、亮政は勢力拡大を図って南近江の六角定頼と対立。
一時定頼勢力に押されてしまたっため越後の朝倉氏と同盟を結び、六角定頼を押し返し、北近江の勢力を固めた。
亮政の死後、後を継いだ浅井久政は無能さをさらけ出してしまい、京極氏や六角氏は逆襲を開始した。


長政が生まれたのは六角氏勢力が強い時期であった。
幼名は猿夜叉。後に新九郎と称し、15歳で元服したという。
始め六角義賢の一字を貰い賢政と名乗り、六角氏の傘下にあった。
が、父久政の六角氏への追従がひどくなり、賢政に「六角家の家臣の義理の子になれ」とまで言われたそうだ。
これに長政は反発した。







1560年、野良田の戦いで攻め寄せてきた六角氏を撃退した。
家臣らはこれを見て喜び、久政を隠居させ、16歳の賢政に家督を相続させた。
長政は正室だった平井定武の娘を返し、六角氏から離反する。
義賢は蒲生賢秀などに大軍を起こさせ、浅井氏の属城、肥田城を攻めた。
が、長政はこれを敗走させる。
久政夫人の尽力により、長政と久政の和解がなり、久政を小谷へ迎え別邸を構えて住まわせた。

足利義昭を奉じる朝倉氏と同盟して独立。
江北国人層の被官化を骨子とする家臣団の再編を行い湖北の平野部郷村を掌握した。
堰堤の構築は平野部郷村の農産に益し、撰銭令は商利交易の活性化を目指すなど、内政にも力を入れていた。

1561年、六角義賢は美濃国の斎藤義龍と結んで長政挟撃を図る。
一時は、浅井氏の支城佐和山城の落城させるが、逆に取り戻されてしまう。

1563年、六角氏に内紛が起こる。
これに乗じた長政は南下を図り、坂田、浅井、伊香の江北三郡に加え愛知、犬上、高島の三郡を獲得し勢力圏に治める。

1567年、朝倉氏とは敵対をしない条件で織田信長と同盟を結び、信長の妹・お市を妻とする。
政略結婚ではあったが、夫婦仲はかなり良かったそうだ。

1568年、信長は佐和山城に入城。朝倉氏を見限った足利義昭は長政に護衛され信長に頼ったという。
六角氏が、三好党と結んで勢力挽回を図ったため、信長は長政と共に六角氏の観音寺城を攻略した。
義昭を奉じて上洛。
これに対し、朝倉は何の動きを見せなかった(上洛しなかった)ため信長の怒りを買うことになった。

1570年、信長が琵琶湖西岸を通過して越後の朝倉方の金ヶ崎城を攻略。
さらに浅井氏の領土を通って、朝倉氏の一乗谷へ迫ろうとした。
長政は朝倉方との同盟関係を重視して、織田軍を攻撃した。
長政は信長が無断で朝倉氏を攻撃したことに激怒したとも、他に父久政より説得されて朝倉方につく事になったとも言う。
信長は苦戦しながらもこれを脱出した。

このとき、妹お市から陣中見舞いと称し、袋の両端を紐で結んだ小豆を信長に送ったとされる。
これを見た信長は長政の裏切りを察したという。

同年、姉川において長政と朝倉の軍が1万8千、織田・徳川連合軍の3万4千が激突。
浅井軍は朝倉軍の左翼にあって、3倍の兵力と互角に戦ったという。
時に先陣を務めた磯野員正(佐和山城主)は、織田軍十三段構えを十一段まで突き破る猛攻を見せたという。
が朝倉軍の敗走を機に退却を余儀なくされ、織田・徳川の勝利に終わる。

その後は浅井氏の居城である小谷城を中心に抗戦。
主力を失った浅井の弱みに乗じ佐和山城を攻略。
長政は援軍を送らず、城主磯野員正が織田方内通の噂を信じ、人質だった員正の母を殺害。
これにより員正は降伏する。信長は佐和山城主に丹羽長秀を据える。
信長の巧みな出城や築城の調略により、徐々に勢力を削ぎ取られていく。

1573年、信長の最大の脅威であった武田信玄の死に乗じ、朝倉氏を滅ぼす。
のち、小谷城を攻められ、父・久政、家臣と共に自害。享年28歳。
浅井の男子は処断され浅井氏は滅亡した。

信長は浅井長政の頭蓋骨に金箔を貼り付け、それを使い酒を飲んだとされるが定かではない。
まあ、そこまで長政の裏切りには強い恨み、憎しみがあったとするのだろう。
信長は長政をかなり気に入っていたというから。

長政の領地、小谷においては長政の人気は根強く、善性がしのばれるという。
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