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2005.09.10 里見 義堯
北条氏康のライバルと呼ばれた里美義堯のことでも書いてみよう。

里見 義堯
生没年:1507年~1574年
父:里見実尭
正室:土岐為頼の娘


義弘 ― 生没年:1530年~1578年
長男。正室には初め小弓公方・足利義明の娘・青岳尼(後の鎌倉太平寺住持)。
その死後は古河公方・足利晴氏の娘。
1561年、上杉謙信の北条氏康攻めに呼応したり、1564年の第二次国府台合戦で北条綱成と戦うなど父・義堯と同様に北条氏と徹底的に対立した。
このため、里見氏の勢力は一時衰退したが1567年に義弘は三船山の戦いで北条氏を撃破して勢力を挽回した。
安房から上総、下総にかけて一大領国体制を築き上げ、里見氏の最盛期を築きあげた。
1578年、久留里城にて急死した。
遺言に弟・義頼(義弘の庶子とも)と嫡男・梅王丸への領土分割を命じたことで里見氏の分裂を招くことになった。

堯次

堯元

義頼 ― 生没年:1543年~1587年
 里見義弘の子ととも言われている。正室は北条氏政の娘。
義弘は生前自身の死後は安房を義頼に与え、上総を実子梅王丸に与えることを約していた。
この分割相続を義頼は不満に思い、義弘との仲は時代に険悪になっていった。
1578年、義弘が死ぬと梅王丸と家督並びに領土を巡って対立する。
そして北条氏政の支援を受けてその妹を妻にした義頼りが1580年に上総を制圧し、梅王丸を出家させた。
これにより里見氏の領土全てを継承することに成功する。
翌年には反抗的な家臣であった正木憲時を殺害、自身の体制を固める。
義頼夫人が死ぬと北条氏政との争いが再燃。
義頼はこれを撃退する一方で豊臣秀吉らと手を結んで連携を取った。
義頼はかなり卓抜した外交手腕を持っていたといわれている。
このおかげで小田原征伐の際、遅参したにもかかわらず、上総・下総は没収されたが里見氏は存続できたといわれている。
1587年、安房岡本城にて病死。

義政

忠弘



里見氏

中世、関東御家人。後安房の戦国大名。別名大新田。
新田義重の子・義俊が上野国里美村に住してこれを姓とする。
源頼朝に従い、安房守護となる。
室町時代に安房を制して上総に進出。
義堯、義弘の代に戦国大名として力を伸ばした。
1564年、北条氏康と国府台に戦って敗れ、衰退。



名は権七郎という。

1532年、北条氏綱は鶴岡八幡宮の造営を計画した。
氏綱はこの造営を契機として、関東において政治的優位に立とうとするものだった。
氏綱は関東の将士に協力を求め、諸国の反応を窺った。
小弓足利義明、武田恕鑑、里見義豊らは協力を拒否。氏綱との対立は明確なものとなる。

1533年、里見氏の家中で内紛が発生。
これを天文の内訌という。
天文の内訌
 別名、稲村騒動。
里見義豊が当主の座を脅かそうとする叔父・実堯を謀殺したところ、実堯の子・義孝が仇討ちと称して謀反の兵を起こし、義豊を殺害して家督を奪った。
伝承では、里見義豊が叔父・里見実堯を殺して家督を奪ったため、実堯の子・里見義堯が仇討ちの兵を起こして、義豊を討ったとされた。

1518年、里見義通が危篤となったとき嫡男・義豊はすでに元服していて父の代理を務めていた。
義豊は家督を継ぎ稲村城へ入り、叔父の実堯とその子・義堯は上総金谷城に入った。
当時関東では北条氏綱の勢力拡大が進んでいた。
ところが、北条氏綱は上総への侵攻の最大の障害である義豊を排除するために実堯や水軍を掌握するその側近の正木通綱に接近し「義豊排除」を勧めた。
この動きを見た義豊や正木水軍の台頭に危機感を抱いた譜代の重臣らは小弓公方の足利義明の了承の元、実堯と通綱を稲村城にて謀殺。
その後、義豊は直ちに金谷城を攻撃したが、義堯は正木時茂、時忠兄弟と共に百首城に篭城し盟友となっていた北条氏綱に援助を求めた。
芳情軍の援助を受けた義孝は反撃を加え、安房国内では稲村城に次ぐ要所である滝田城を陥落させた。
義豊は一時的に上総の真里谷進保の元へ逃走した。
義豊は当時真里谷氏領であった久留里城の支城である大戸城を拠点に再起を図った。
安房に再び入った義豊は犬掛けの戦いで大敗を喫し、戦死したとも自害したとも言われている。
真里谷進保は義豊の救援の失敗により足利義明の勘気を受けてしまう。
こうして里美氏の家督を得た義堯は、真里谷進保が病死すると、一転して義明の意向を受けて真里谷氏の当主となった真里谷信隆の追放に加担した。
信隆を支援していた北条氏綱とも同盟も破棄され、再び北条氏と里美氏は敵対関係となってしまう。
小弓公方の足利義明と手を結んだことで関東副将軍と称した。








やがて、小弓公方足利義明は古河公方攻撃を目論み、関宿城攻撃のため国府台の要塞への陣を進めた。
古河公方・足利晴氏は北条氏に義明追討を命じた。
1538年、第一次国府台合戦が勃発。
結果は義明が氏綱に敗れて戦死する。義明の子・頼純は安房へ逃れた。
義堯は義明の戦死を知って、戦っても利なしと考えて戦場から離脱し、逃亡したという。
そのため里見軍には致命的な損傷を免れている。
このことから義堯は利に敏く、冷徹な武将であったといわれている。
義明の死後、小弓御所が滅んだことで版図が拡大しやすくなり義堯は下総や上総に積極的に進出した。

1539年、義堯は北条方の上総有吉城を攻撃したが、翌年には反対に里見氏の本拠安房に攻撃された。
このことで上総の久留里城を本拠とし、里美氏の最盛期を築き上た。
が、北条氏が管領山内上杉氏を追放したため関東に君臨するようになりいくら里見氏が全盛とはいえ、単独で戦える相手ではなくなっていた。

1554年、それに対し氏綱の後を継いだ北条氏康は今川義元、武田信玄と三国同盟を締結すると、義堯は越後の上杉謙信と手を結んで、あくまで氏康に対抗した。
北条氏康は三国同盟を後ろ盾とし、北条綱成と共に二万の軍を率い里見氏の本拠久留里城を包囲した。
里見義堯・義弘親子はこれを撃退し勇名を近隣にあげた。
翌年、またも北条軍が久留里に押し寄せたが、またも成果を収めれなかった。
1556年、義弘を大将とする里見勢は兵船八十余を仕立て三浦半島を襲撃し、北条水軍を撃破し鎌倉を制圧した。

1560年、氏康が里見領に侵攻してくると、義堯は久留里城に篭って抗戦。
長尾景虎の越山を知った氏康は久留里城の包囲を解いて武蔵松山城まで引き上げた。
関東に入った景虎は、沼田城・厩橋城を落とし北関東に席巻した。
厩橋城をを本拠とし、翌年十一万の大軍を率いて小田原城に立て篭もる北条氏康を攻めた。
このとき義堯の子・義弘が軍を率いて参加し景虎に謁見したという。
小田原城の堅守に長陣を嫌った景虎は囲みを解くと鎌倉に入り、鶴岡八幡にて関東管領職の就任式を行った。
以降上杉を名乗る。
以後、上杉謙信と味方する里見氏は古河公方の継承問題も含めて北条氏と対立する。

北条氏康が武田信玄と連合し武蔵松山城を攻撃。
謙信は里見氏に救援を要請したが、松山城は落城。

1564年、第二次国府台合戦では氏康の奇襲の前に大敗を喫した。
これにより、上総を失って里見氏は一時衰退したが、義堯の勢力は再び盛り返した。
1567年、三船山の戦いで北条軍を破ってその地をとり戻した。
その後は水軍を建造して、北条氏とあくまで戦う姿勢を示していたという。
しかし関東の情勢は謙信率いる越後勢が関東にいる間は北条氏が劣勢となり、謙信が越後に帰ると北条氏が勢力を盛り返すというイタチごっこが続いた。
上野の由良氏や厩橋城の将の北条氏らが北条方に転ずるなどして次第に北条氏の優勢に展開された。

武田信玄が駿河に侵攻を開始したことで甲駿相同盟が崩れ、遂に上杉謙信と北条氏康との間で越相同盟が成立した。
この同盟での里美氏の扱いは、上総の主導権を確保するに留まった。

1574年、義堯は久留里城にて没した。
義堯の死は里見氏を大きく動揺させ、次第に衰退させていく遠因となった。
簗田氏の関宿城が北条氏に落とされ、北条氏による本格的な房総侵攻がはじまる。
茂原・一宮周辺や上総万期城を巡る攻防が繰り広げられ、東金・士気の酒井氏が北条氏に属した。
また北条氏の山本水軍が里見水軍を破り江戸湾の制海権を掌握。
ついに里美氏は講和に応じざるを得なくなり、里見氏は上総から大幅な後退を余儀なくされた。

義堯は武将としての器量に優れ、常に関東副将軍となる野望を抱いていたという。
義堯の存在のために北条氏は義尭存命時には関東統一を果たすことは不可能だったといわれていた。






南総里見八犬伝
読み本。全九八帳一〇六冊。
曲亭馬琴作。1814年~1842年刊。
室町時代、安房の武将里見義堯の娘・伏せ姫が八房という犬の精に感じて生んだ仁・義・礼・智・忠・信・考・悌の八徳の玉を持つ八犬士が、里美氏勃興に復活する伝奇小説。
主題は勧善懲悪。

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