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2005.09.08 北条 早雲
戦国三大梟雄、斎藤道三、松永久秀ときたので北条早雲のことでも書いてみよう。

北条 早雲

生没年:1432年~1519年

父は伊勢盛貞、
義父は伊勢貞道

正室
・小笠原備中守の娘
・栖徳寺殿(葛山備中守の娘)


南陽院殿


氏綱 ― 生没年:1486年~1541年
小笠原備中守の娘の子。幼名、伊豆千代丸。通称は新九郎。
氏綱は家督を継承後小田原に本拠地を移し、「北条」の姓を名乗るようになる。
扇ガ谷上杉氏の支配下にあった江戸城・川越城を奪った。
上総・下総に勢力を持つ里見氏を敗って関東を平定し、小田原の繁栄を導いた。

(左馬助)氏時 ― 生没年:?~1542年
小笠原備中守の娘の子。幼名、新六郎。初代玉縄城城主。
1526年、安房の里見義豊が相模鎌倉に乱入してきた際、戸部川で迎撃した。

氏広
小笠原備中守の娘の子。

長綱(幻庵) ― 生没年:1493年~1589年
栖徳寺殿の子。幼名菊寿丸。法名は長綱、後に幻庵宗哲と名乗る。
馬術や弓術に優れ手先も器用である文化人。多芸多才、文武兼備の名将。
氏康の娘が嫁ぐ際に「幻庵おほへ書」という礼儀作法の心得を記した書を持たせたといわれている。
氏康から氏政、氏直へと当主は変わっていたが、幻庵は歴代の後見を務めており、さながら「黒衣の宰相」として、北条氏の全盛時代を築いた。
武田信玄との蒲原城の戦いにおいて子の綱重・長順を失い、北条氏康の八男氏秀に家督を譲って隠居し、幻庵と号した。
氏秀が上杉謙信の養子となった後は孫の氏隆に家督を継がせる。




苗字は伊勢、名は長氏、あるいは盛時、通称は新九郎。
号は早雲庵宗瑞。

早雲は一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下克上の典型とされていたが、実際には室町幕府の政所執事を務めた伊勢市の出自と見られる。
近年有力視される説は、備中国に移住した伊勢氏一族の庶子で、備中蒔原庄で生まれたとされる。
妹が名門今川家の正室におさまっていることから、ただの素浪人ではなかっただろう。



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室町幕府足利義政の弟である足利義視に仕えていたという。
このころ、同志6名と語らい、「もしこのうちの誰か一人が大名となったら、残る6人はその家臣となって協力すべし。また大名となった者は、忘れることなく6人を取り立てよう」と誓いを立てたという話がある。
後年、6人は誓い通り早雲のもとに集い、北条一族に準じる家格の「御由緒家」として重用されたという。

1467年、応仁の乱の後、駿河国の守護今川義忠に嫁いでいた妹・北川殿を頼って駿河に赴く。
1476年、義忠が死ぬと、義忠の子・龍王丸(後の今川氏親、早雲の甥)と従兄弟の小鹿範満を巡る今川氏の家督争いが起こる。
これに関東勢力争い(堀越・扇谷上杉)が絡み今川家は危機を迎える。
早雲はこれの調停を買って出る。
扇谷上杉家の家臣である太田道灌とともに龍王丸が成長するまで範満が家督を代行する折衷案を提示し、成功させた。
その後は京都へ戻り幕府の伸次衆を務める。
1487年、再び駿河へ下り、範満が氏親成人後も政務を譲らないため、龍王丸擁立派とともに範満を討ち果たした。
この功績により駿河興国寺城と所領を与えられる。

駿河へ留まった早雲は氏親を補佐する。
1493年、伊豆国を侵入して堀越公方の足利政知死後に政知の子・茶々丸が継母と異母弟を殺すという事件が起こる。
早雲は今川氏親から駿河衆三百人を借り、葛山氏曉の援軍を得てわずかの軍勢で堀越御所を急襲した。
足利茶々丸を滅ぼし、伊豆を奪ってしまう。
伊豆を平定した早雲は韮山に城を築き、居城とする。これにより、早雲は国持ち大名となる。
伊豆の国人たちの処遇は従う者には所領を安堵、敵対する者には火を放つと宣言した。
関東に出陣していた国人たちは伊豆に立ち返り早雲に従うことを約束した。
戦いを避けていた農民たちを安心して村に戻ってきた。
さらに年貢を五公五民から四公六民へと軽減したため、農民たちは大いに喜んだという。
しかしこれで満足はせず、次なる目標を箱根山を越えた、相模に向けられていた。

1494年、扇谷上杉定正、扇谷の武将・小田原城主の大森氏頼、相模の名門・三浦時高などの有力な者が相次いで死亡。
この関係により相模に軍事的空白が出来た。
相模小田原城では、若い大森藤頼が城主となっていた。
藤頼は器量がなかったという。
早雲は藤頼と親交を結ぶと、度々小田原を訪ねては動静を探っていた。
1495年、鹿狩りを口実に勢子に扮した手勢を小田原領内に深く送り込み、隙を狙い一気に夜討ちをかけた。
不意をつかれた小田原城は簡単に落ちた。
このときも国人、農民に対しては寛大な処置をして、戦いを急ぐことなく領国経営に力を注いでいた。
相模に領土を広げて関東地方への足がかりを得た。

対立に明け暮れていた山内・扇ガ谷の両上杉家が、早雲の野望に気付いたのは1505年になってからだったという。
両上杉が和睦、結束して、早雲に当たる事になったときには、すでに遅かった。
両上杉が戦に明け暮れ、消耗している間に早雲は戦力を充実させていた。

その後今川氏の援助を受けながら徐々に西相模を掌握しつつ、三浦半島の有力豪族、三浦一族と一進一退の攻防を繰り広げる。
一度は大敗を喫するもの1512年には鎌倉を奪取。
鎌倉に玉縄城を築いた。
1516年、三崎城で三浦義同を討ち、三浦氏を滅ぼし三浦半島を平定。
これにより相模全域を統一した。
同年、家督を北条氏綱に譲る。

1516年、早雲は老衰で死去。享年88歳。

一連の戦国時代はこの北条早雲より始まったといわれている。
早雲はそこまで悪逆非道な行動をしていないが、前例の無いことをしたという事で梟雄と評される。
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