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2005.09.05 松永 久秀
下克上を成した一人、松永久秀のことでも書いてみよう。

松永 久秀

生没年:1510年~1577年


久通  ― 生没年:1543年~1577年
 父・久秀に従い将軍・義輝の暗殺などに参加した。若いうちに名目上の家督を継ぎ、父の持城である多聞山城を守る。
 1568年、義輝の弟・足利の義昭を擁立して京都に上洛した織田信長に松永久秀が降り、大和一国の支配権を公認されると、父と共に松永氏の支配に服さない筒井氏ら国人領主と追討した。
 1572年、久秀が最初に信長に反抗したとき、多聞山城を織田方の諸将に攻められて降伏。
 1577年、再び、久秀が信長に対して謀反を起こしたときもこれに従って信長に反抗。父と共に信貴山城で自刃。

永種
 子に連歌師の貞徳がいる。

出自については安房の国、山城国西岡出身など諸説あり、摂津国五百住の土豪の出とも伝えられる。
高槻城主入江氏との姻戚関係から考えても機内出身である可能性は高い。
はじめ藤原氏を称していた。
1561年、から源氏を称した。

乱世の梟雄として悪名を轟かせる。

細川氏の被官・三次長慶の右筆(書記)として仕えたという。
めきめきと実力を現し、京都奉行から三好家の宰相までなる。
軍事面や築城に優れていたという。
1542年、長慶の武将として南山城に進駐する。
弟・長頼も軍事的才幹を持って長慶に仕える。
1549年、摂津江口の合戦で破れた細川晴元政権が崩壊したのに伴い、三好長慶の進出が目立った。
長頼は長慶の被官として幕府領の山科七郷を押領した。
久秀は、長慶に従い上洛し幕政に関与することになる。

1550年、長慶が足利義輝と戦った際には、醍醐から迂回して近江大津、松本に進撃して集落を焼き払い、義輝を坂本へ退却させた。
長頼は兄・久秀よりも早く独立武将として活動していた。
1551年、晴元との戦いでは久秀と長頼は相国寺による三好政勝らの軍に猛攻を加え、丹波へと敗走させた。
1553年、長慶が将軍・足利義輝を京都から追放する。
久秀は伊勢貞孝らと京都の庶政を採決したという。

弟・長頼は丹波方面の司令官となり八上城を包囲。
この攻撃中に、長頼の岳父の内藤国貞が晴元の攻撃で八木城にて敗死。
残兵を糾合して一日で八木城を奪回、この軍略によって一躍長慶の重臣にのし上がり、丹波一国を預けられた。
以後丹波、八木城主として守護代内藤氏の名跡を継承する地位にあった。
口丹波と奥丹波の領域に収めて、十余年にわたり同地域の安定を保ち、京都の儒者清原貞賢より「丹波太守」と呼ばれた。
後の久秀の台頭は、実のところ弟・長頼の軍略と威勢に多くを負っていたという。

1556年、長慶が機内を平定し、久秀は摂津国滝山城城主に任じられた。
1559年、大和国信貴山城に移る。
1560年、興福寺の大和国支配を終焉させて大和一国を統一した。
陪臣の身でありながら、主家同様に室町幕府の御相伴衆まで列せられる。
1562年、多聞山城を築城、移り住んだ。








久秀の権勢が主家を凌ぎ始めたころ、主家を排除することを考える。
まず、長慶の弟の義賢を讒言し、兄弟の亀裂を深めたのを皮切りに、同僚の伊勢氏も讒言にて処罰させる。
さらに長慶の嫡子・義輿を毒殺し、失意のあまり病みついていた長慶に、弟の安宅冬康に讒言して暗殺させた。
1564年、嫡子に先立たれた失意と、弟たちに裏切られた(と思い込んでいる)悲哀の中で長慶が没する。
 このとき三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と共に長慶の後継・三好義継の後見人になる。

1565年、三好義継と久秀の嫡子・久通の軍勢約一万が、突然将軍・足利義輝の京都御所を囲み、暗殺する。
久秀は一族皆殺しを考えていたようだが、当時一乗院の門跡立った覚慶(後の足利義昭)はなんとか逃れていた。
これにより久秀は機内に君臨するようになった。
同年、弟・松永長頼の支配する丹波国も同様が走り、赤井直正の拠る丹波黒井城を包囲したが、直正の逆襲にあい、長頼は敗死。
松永軍は丹波氷上郡内で崩壊し、丹波は三好の分国を離脱した。有名はキリシタン大名・内藤如安は長頼の遺子である。

このころ、三好三人衆と対立するようになる。
1567年、三好三人衆が篭る、東大寺を攻撃、遂には東大寺大仏殿を焼き払ってしまう。
東大寺大仏殿のことは、三好三人衆側の失火という説もある。
これにより、世に悪評を広め、筒井順慶ら国内土豪は久秀より離反していった。

1568年、足利義昭を擁立し、織田信長が上洛すると、名器・九十九髪を持って降伏し大和一国を安堵された。
1571年、武田信玄と通じて信長に背むこうとする。
1573年、将軍・足利義昭と同盟を結んだ。
同年、義昭が追放されて幕府が滅亡した。
三好義次が河内国若江城にて敗死したのを機会に再び信長に帰順。

1576年、上杉謙信の上洛に伴い、石山本願寺や毛利氏と連携し、再度信長に反攻し蜂起した。
1577年、織田信忠により信貴山を包囲され陥落。
このとき、所有していた名器・平蜘蛛茶釜が信長に渡るのを拒んだ久秀は、茶釜を道連れに爆死した。
(持病の発作を抑えるため、頭に灸を据えながら切腹したとも伝えられている)享年69歳。
首塚が奈良県王寺町の達磨寺に存在する。

将軍足利義輝の暗殺や東大寺大仏殿の首謀者とされ、また陣中にあっては女色にふけっていたともいい、狡猾で意地汚いイメージが付きまとう。
が、実像は美男子で立ち振る舞いが優雅な教養人であったという。
武野紹鴎に師事し、茶人としての交流は広かったという。
平蜘蛛茶釜はもちろん、一時は九十九髪茄子を所有していた。
領国では善政を敷いたとされており、今も信貴山城近郊では名君として慕われている。

信長が久秀と家康を引き合わせたときに
「この老翁は世の人の成り難し事を三つ成したる者なり。
将軍を弑し奉り、また己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚きたる松永と申す者なり」
といって紹介したという話がある。
これで久秀は信長に恨みを持ったというが、本当かどうかは定かではない。
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