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2005.09.03 斎藤 道三
三大下克上の一人だった斎藤道三のことでも書いてみよう。

斎藤 道三

生没年:1494年~1556年

妻:三芳野
 元は土岐頼芸の側室であったと言う。


義龍 ― 生没年:1527年~1561年
 三芳野の子。道三の子ではないと言う説もある。
 道三より無能と称されていたことで仲は険悪だったと言う。
 弟の義重と龍定を殺害し、父に対し謀反を起こす。
 長良川にて父を討ち果たした。
 このことで織田信長や浅井長政を敵に回すことになる。
 1561年に突如として病死。

利尭

帰蝶(濃姫)
 同盟により織田信長に嫁ぐ。子供はおらずその人物像もかなり不明である。
 斎藤氏との同盟破棄後の行方は知れず、離婚説や本能寺まで信長についていたと言うなど諸説ある。

孫四郎

喜平治

長龍


斎藤氏
 美濃の斎藤氏は利仁・叙用の後裔が美濃国目代として越後から移り住んだのに始まると言われている。
 室町時代に美濃国守護土岐氏に使え、その守護代と成り稲葉山城を居城としていた。
 戦国時代に至っては断絶していたが、京都出身の油売りであった斎藤道三が継承。
 さらに守護の土岐頼芸を追い、下克上により美濃国を押領した。
 道三は、嫡子義龍より殺される。
 義龍早世後に、その子斎藤龍興が継ぐ。
 1567年には、本城稲葉山城を織田信長に政略され、美濃を追放された。
 越前の朝倉義景を頼ったが、後に朝倉氏が信長により滅ぼされたことで運命を共にした。
 これにより美濃斎藤氏は滅亡。

土岐氏
 清和源氏の支流。土岐郡に土着し、中世、美濃の守護大名を任される。
戦国末、斎藤道三より没落。多治見・明智など諸流も多い。
近世は、沼田藩主となる。

1494年、京都に住む浪人の松波基宗の子として生まれたと言う説があるが、確かではない。

1504年、妙覚寺に入り修行したとも。法蓮坊と名乗る。
後、奈良屋という油屋の養子となり、山崎屋庄五郎と称す。
このころまでの話は諸説が多く定かではない。









1521年、美濃の守護の土岐氏の家老の長井長弘の家臣となる。
長井家の家老であった西村家の後を継ぎ、西村勘九郎と名乗る。

1538年、長井利安を殺し、長井家を乗っ取り、長井新九郎規秀と名乗る。

1538年、主君土岐頼芸に取り入り、守護代の斎藤家を乗っ取り後を継ぐ。
斎藤山城守秀龍と名乗る。

土岐氏の家臣団が怒り攻めてくるが、朝倉氏の助けを借りて仲直りをする。
この後出家し斎藤道三と名乗る。

1542年、油断した土岐氏家臣をだまし、主君土岐頼芸を追い出し、守護に成り代わる。

1544年、尾張の織田信秀、越前の朝倉氏より攻められるが小競り合いの後停戦。

1548年、斎藤道三の娘と織田信秀の息子を結婚させることで同盟を結ぶ。
このころ正徳寺で会見した際「うつけ者」と評されていた信長が多数の鉄砲を護衛に装備させ、正装で訪れたことに大変驚き、道三は信長を見込んで斎藤家を託したいと考えていたと言う話がある。
がこの話は「信長公記」によるもので正当性は定かでない。

1556年、子の義龍と戦って、長良川にて敗死。信長の援軍が到着する前であったと言う。
龍義と道三の不和は、龍義が道三の子ではなく土岐頼芸の子であったからとされ、道三に対しての宣戦布告も、親の敵討ちと言うことで大義名分をつくったとも言われている。

美濃のマムシと呼ばれ、下克上を体現した人物であった。
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