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2005.09.01 今川 義元
甲斐、相模と来たので、三国同盟のもうひとつである駿河の今川義元のことでも書いてみよう。

今川 義元

生没年:1519年~1560年

父:今川氏親
母:寿桂尼 大方殿(父:大納言 中御門宣胤)

正室:定恵院
武田信虎の娘。


氏真 ― 生没年:1539年~1614年
正室に北条氏康の娘、蔵春院早河殿。
教養ある文化人であったという。
義元の死後、徳川、上杉、武田、北条など諸国に翻弄されつづけ、結局徳川家康へ下った。
出家して宗(そうぎん)と号した。

泉奨

娘  ― 武田義信室



長得

娘  ― 牟礼壱岐守勝重妻


今川氏
 足利氏の一族で、南北朝時代には今川貞世が侍所頭人・九州探題に任じられた。
今川氏は足利一族中、名門中の名門であり、将軍家から御一家として優遇された吉良氏の庶流にあたる。
室町幕府において「御所(足利将軍家)が滅べば、吉良が継ぎ、吉良が滅べば今川が継ぐ」というまで謂われていた。
戦国時代には今川義元が駿河・遠江・三河を領国化し、東海の雄となったが織田信長に討たれ、衰えた。


今川仮名目録
 今川氏の仮名書き分国法。
 1526年氏親が定めた33条の仮名目録とその子義元が1553年に定めた21条の仮名目録から成る。
 訴訟に関する規定が多く、喧嘩両成敗や私婚の禁止などを規定した。


1519年、氏親の三男として駿府城で生まれた。幼名を万菊丸といった。
生まれたときすでに同母兄の氏輝がいたため4歳で仏門に出されていた。
臨済宗に入門し梅岳承芳と称した。
師の臨済宗禅僧・太原雪斎と共に京へ上り五山で学んだという。

雪斎は軍事・外交に秀でていた人物で、軍師として名高かった。
川中島での信玄と謙信の講和調停などに活躍したとされる。

1536年、兄が急死したため駿河に戻り、異母兄であった幻広恵探(また良真)との間で家督争いになった。
雪斎と母・寿桂尼の尽力により花倉の乱を勝利。(恵探は自刃)
こうして還俗し今川氏第9代駿河守護となり義元と称した。
官位は従四位下治部大輔に上る。「東海一の弓取り」と呼ばれ、領国経営と外征に才能を発揮した。

家督を継ぎでまもなく、武田信虎の娘と結婚し甲斐の武田氏と同盟を結ぶ。
これは花倉の乱のときに武田信虎の支援があったからとされる。
そのため、旧来の縁戚であった北条氏を敵に回すことになった。



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1540年、三河岡崎の松平氏は二分化し、その一方が、小田信秀とはかり今川の拠点であった安祥城を攻め落とし、三河進出を図った。
1542年、松平弘忠から救援依頼を受けた義元は生田原に出陣。
織田信秀は安祥城に兵を進め、矢作川付近の小豆坂で合戦となるが、今川勢は敗北した。

武田氏との盟約により甲州への不安がなくなった義元は北条方へ備える。
一時駿河東部で戦い、その一部を奪われたが1545年に上杉憲政と手を結んだことで北条氏を駆逐した。
1551年には興国寺城を奪われたが、奪還して黄瀬川を国境とした。

西側では尾張の織田信秀の進出により西三河の松平氏の帰順を受けた。
松平広忠の子・竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れようとするが、護送を請け負った三河田原城の城主戸田康光が裏切り、竹千代を織田氏のもとへ送り届けてしまう。
これは前年に戸田一族である戸田宣成、戸田吉光を滅ぼしたために憤った戸田宗家の反乱であった。
これに怒った義元は戸田宗家を滅ぼし、田原城には朝比奈氏を入れた。

1549年に竹千代が織田方へ護送されてもまだ今川に恭順の意を示していた松平広忠が死ぬと、松平氏の離反を防ぐため織田方の三河安祥城を攻略。
その城主であった織田信秀の庶子・織田信広(信秀の長子にあたる)を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還した。
これにより松平氏の所領とその支配下にあった三河の国人領主を直接支配下に組み入れ、勢力を拡大していった。

領国経営の充実が今川伸張の背景であり、検地による年貢と軍役を定め、財政基盤と軍事力を整備した。
楽市による商工業の自由化を進める一方、軍需物資のみ統制経済を実施した。
富士・安倍の金山開発も重要な資金源であった。

1554年、嫡子・氏真に北条氏康の娘と縁組をし、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成した。
これにより東の憂いを断った。

1551年、信秀の死に動揺する織田氏を揺さぶりをかけ尾張東部知多郡・愛知郡に勢力を伸ばした。
織田の武将、山口左馬助は鳴海城主のまま今川氏に通じ、鳴海城には嫡子・九郎二郎を、笠寺に築いた砦に今川武将、戸部豊政を、中村に築いた砦に山口左馬助が入った。
1553年、信長は鳴海城を攻めたが敗れ、左馬助は勢いに乗って大高城、沓掛城も攻め落とした。
1555年、義元は松平親乗に織田氏の蟹江城を攻略。

1560年、三河守を選任。
大軍を率いて尾張への侵攻を行い知多郡大高城周辺の諸砦を落とし、侵攻していた。
義元率いる本陣が大高城へ向かう途上、桶狭間山中での休息中に織田信長の襲撃を受け、討ち死にした。
享年42歳であった。

この敗戦により三河で再び松平氏が自立し、今川氏の衰退が始まった。
義元の後を継いだ嫡子・氏真は8年後に武田信玄により駿河を追われた。

義元は寸胴短足で馬に乗れなかったという説は江戸中期以降の記述でしか見られず、信憑性は低い。
義元が輿に乗っていたとされるのは足利将軍家から特別に認められていた栄誉として乗れていたためである。
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