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2005.08.20 上杉 謙信
 武田信玄のことを書いたので、そのライバルといわれた上杉謙信のことでも書いてみよう。



上杉 謙信

生没年:1530年~1578年
戦国時代の武将。
謙信は出家してからの号。もとの名は長尾景虎。
武田信玄と戦国の双璧を成し、毘沙門天の再来とも言われ、甲斐の虎に対して越後の竜と呼ばれた。

妻や女は無し。

養子:
上杉 景勝
 謙信の姉と長尾政景の子。妻に武田信玄の娘、菊姫。
後に豊臣秀吉に仕え、五大老の一に列し、会津120万石に封。
関が原の戦いに石田三成と結んだため米沢30万石に移封。
会津中納言とも。
家臣に、直江兼続がいた。

上杉 景虎
 北条氏康の末子。和睦のための人質としてきていた。
 その前には武田信玄の養子でもあったといわれている。
 妻に景勝の姉。謙信の死後、景勝と家督争いの末に討死。


上杉氏
 室町時代に関東管領を輩出した武家。
 その家計は公卿の藤原氏の一家、勧修寺家より出た。
 室町時代に鎌倉公方の管領を命ぜられる。
 その間犬懸、山内、宅間、扇谷と4家に分かれた。
 犬懸と宅間は早々に滅び、山内と扇谷が有力となるが、関東管領職は山之内が独占していた。
 扇谷は北条氏に滅ぼされ、山内も長尾氏に実権を奪われ苗字と管領職を長尾家に譲った。

長尾氏
 関東地方で起こった武家で、坂東八平氏の一つ。
 鎌倉五郎景正の孫景行が長尾次郎と称したことに始まる。
 南北朝以降、上杉氏の家例や守護代としてつかえていた。
 長尾景虎が上杉憲政より苗字と職を譲受けて以降は長尾氏は上杉氏と称す。


1530年(享禄3年)1月21日、越後守護代長尾為景の子として春日山城にて生まれる。幼名は虎千代。
1536年、父の為景が病死し、兄の長尾晴景が家督を継ぎ、謙信は林泉寺に入門し住職の天室光育の教えを受けていた。
1543年ごろに元服し、長尾景虎と改め、栃尾城主となる。
この頃越後では守護上杉定実が伊達植宗の子を養子に迎える件で内乱が起こり、病弱な兄に代わり、それを鎮圧。
1546年には長尾氏に対し黒田秀忠が謀反を起こし、定実から討伐を命ぜられ、黒田氏を滅ぼす。

1548年、定実の調停により晴景は景虎に家督を譲り隠退。
景虎は長尾氏の本拠である春日山城に入城し、19歳で家督を相続、越後守護代となった。

1550年、一族で従兄弟の長尾政景が景虎の家督相続に不満をもち反乱を起こす。翌年には鎮圧。政景は降伏し、以後は重臣として活躍する。



潤い


1553年、景虎は上洛し、後奈良天皇や室町幕府第13代将軍足利義輝と謁見する。
同年、甲斐の武田晴信の信濃総攻めによって領地を追われた村上義清らが景虎のもとへ逃亡し保護を求めた。
景虎はこれに応じ、信濃に出兵、川中島の戦いが起こる。
1554年、家臣の北条高広が武田信玄と通じ謀反を起こしたが、翌年には鎮圧。
同年、信玄と川中島で再び対峙したが、決着はつかず、駿河の今川義元の仲介で和睦、撤退。

1556年、この頃武田信玄との抗争や家臣である長尾政景、北条高広、大熊朝秀らの反乱とで俗世に嫌気が差し、景虎は突如として家督も越後も捨て比叡山に入り出家すると言い出した。が、家臣団の説得により出家は撤回した。

1559年、景虎は再度上洛し、正親町天皇や将軍義輝に謁見。義輝より管領並みの待遇を受けたという。

1561年、景虎は北条氏康に追われた関東管領・上杉憲政を擁し、10万の大軍で小田原城を攻める。
が、小笠原城の堅牢さには歯が立たず一ヶ月の攻防戦の末鎌倉を退去。
このときに、上杉憲政の要請もあって景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮において山内上杉氏の家督と関東管領職を相続することとなり、名を上杉政虎と改めた。
後に将軍義輝により名を賜り上杉輝虎と改名。

1561年、武田信玄と四ナノをめぐって第四次川中島の戦いを行うが、決着はつかず、結局信濃の北辺の一部を掌握したのみで、村上氏、高梨氏らの旧領を回復できなかった。
1564年にも信玄と川中島で対峙するが決着はつかず。

武田信玄と抗争を繰り返す隙を突かれ、北条氏康も反攻を開始した。
これにより拡大していた関東における所領の大半は後北条氏に奪われる。
輝虎はこれを奪還すべく以後、関東に出陣するが、思うように進まず、上野の一部を領有するに留まった。
1568年、矛先を変え越中に向けて侵攻を開始したが、信玄に通じていた重臣の本庄繁長の反乱が起こりうまく進まなかった。繁長の反乱は翌年には鎮圧された。

1569年、この頃、今川とも北条とも対立していたため、塩の入ってこなかった武田に対し、塩を送ったとされる。

1570年、武田信玄を牽制するために北条氏康と同盟を結ぶ。
このとき氏康の七男である北条氏秀を養子として迎える。
輝虎は氏秀のことを気に入って上杉景虎という自分の前の名を与えると共に、一族衆として厚遇したという。
またこの頃に輝虎は名を謙信と改めた。

1571年、氏康の死によって後北条氏との同盟は破棄となる。
1572年、織田信長と同盟を結び武田信玄を牽制すると共に、北陸に転じ越中の一向一揆勢力と戦う。
1573年、宿敵、信玄が病没して武田氏の脅威がなくなると、1576年には本願寺顕如と講和し信長との同盟を破棄。反信長勢力の重鎮となる。

1577年、畠山氏を滅ぼし能登を完全に平定。
同年、手取川の戦いにおいて、柴田勝家率いる織田軍に勝利。
1578年3月13日、遠征準備中に急死。享年48歳。
死因は、一般的には脳溢血、俗説として織田の暗殺という話もある。
急死のために、継嗣を決めておらず、養子間で相続争いが起こる。

人柄は生まれつきのカリスマで、天才性を持っていたとされている。
強い信仰心を持ち、毘沙門天を崇拝して毘の旗を常に高く掲げていた。
動きは電光石火、神のごとき洞察力で敵方の動きを見抜き、生涯のほとんどの戦で勝利を収めている。

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