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2005.06.09 源頼朝
前に、義経の事を書いたから、今度は兄の頼朝の事でも書いてみよう。

生没年:1147年~1199年

源義朝の第4子。(源氏の嫡流)
鎌倉幕府初代将軍(在職1192年~1199年)。
正室、北条政子。
子に大姫、頼家、実朝。(他に、側室からもいたといわれている。)


 1159年(平治元)の平治の乱にとき初陣、が源氏の敗走、
捕らえられ、処刑されかかったが、平清盛の義母・池禅尼の助命嘆願により伊豆蛭島に流された。
 以降、青年期を北条氏の監視つきの伊豆で育つ。





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 1180年(治承4)以仁王の令旨を奉じて平氏追悼の兵を上げる。

 同年8月、相模国石橋山(現、小田原市付近)にて平家方の大庭景親と戦ったが敗北、石橋山に潜伏中に敵方の将だった・梶原景時に助けられ、難を逃れ海路安房へ逃げ延びた。

 同年10月、富士川にて頼朝追討のために派遣された平維盛との戦いに大勝。(しかし、これは平氏勢が、夜襲の気配で飛び立つ水鳥の羽音に驚いて、敗走したため)

 鎌倉にあって東国を固めるため動けず。
 弟範頼・義経を遣して1184年に源義仲を討伐させ、続いて一ノ谷、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させた。

1180年、侍所、公文所(政所)・問注所の主要機関を順次開設した。
1185年、弟、義経との不和に乗じて後白河法皇に守護・地頭の設置を認めさせ、武家による全国支配の端緒を作った。(このときに幕府を開いたことになる。)

1190年、上京して、右近衛大将を任じられたが、まもなく辞して鎌倉へ帰った。

1192年(建久3)に後白河法皇死後、後鳥羽天皇より征夷大将軍に任じられ、正式に鎌倉幕府の開府となる。

しかし、範頼・義経の肉親をはじめ、多数の功臣を殺したため、死後、権威は北条氏に移った。




まあ、この人もなんだかよく分からない人だよな。
運がいいのか悪いのか。

戦に関しても、この人が強いということは一切聞いたことがない。
戦ったことがあるのが、あまりない上に、勝ったのは運のようなものだし。

この人が鎌倉幕府を開いたからといって、実権的なものがあったのかなかったのかがよくわからない。
下手をすると、全ての実権は最初から北条氏が握っていたことになるからな。

奥さんの北条政子に勝てなかったのは事実のはずだし。

恐妻家なのに、よく側室を作っていたよな。
まあ、その側室の一人は政子に殺されそうになって、いなくなってしまったが(子供がいたはずだが、妻子ともに以後不明)。

娘の大姫を、平氏のように天皇の后にしようとしたが、その前の病死。
たしか、大姫は源義仲の息子・義高と婚姻(婚約?)関係にあったはずだが、それはいいのか。まあ、大姫がまだ小さい頃の話だが。
まあ、大姫の病死により、公家や天皇家との姻戚関係を持つもくろみは途絶えた。

頼朝の死についても謎がある。
一般的に、頼朝は落馬してなくなったとされている。
風邪を引いていたのに、無理をして馬に乗り、落馬して頭を打ち死亡。
これが、普通に聞いていた話。
しかし今、北条氏による暗殺説が浮上しているようである。
まあ、そういわれてもあまり違和感はないが。

そうなると、鎌倉というか源氏の3将軍は全て北条氏の暗殺によるものとなる。
ますます、北条氏、というか政子は悪者になるかな。
まあ、北条氏にたてついたものは、謀略や暗殺により、家を滅されているが。

鎌倉初代将軍であるはずの頼朝の墓の位置もあまりよくわかっていないらしいし。

今現在、云われているもののほとんどは、歴史書といわれる「吾妻鏡」などに云われるものばかりだが、それ自体が改竄されているものとは誰も言い切れないものである。
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