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2005.08.18 武田 信玄
前に映画「天と地と」を見た。
ということで、その主役の一人だった武田信玄のことでも書いてみよう。



武田 信玄

生没年:1521年~1573年
戦国時代の武将。
名は晴信で、出家して信玄と号した。
風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎と呼ばれ、率いた武田騎馬隊は戦国最強と評された。

正室:三条の局

側室:諏訪御前、禰津御前、油川夫人

子:
義信
  室に今川義元の娘
・信親
  高家武田氏祖
・信之
・女子(黄梅院)
  北条氏政室
・女子(真竜院)
  木曽義昌室
・女子(見性院)
 穴山信君室
・勝頼
  諏訪御前の子。室に織田信長の養女。
  父の没後家を継ぎ、性勇猛であったが、思慮に乏しく、長篠の敗戦後は勢い振るわず、織田・徳川の軍に撃破され、天目山の麓で自刃。
・盛信
  仁科家始祖
・女子
・信貞
  葛山家始祖
・女子(信松院)
  上杉景勝室
・女子(お菊御料人)
  玉田寺長老
・信清
  安田氏始祖

 武田氏は、清和源氏の支流で、鎌倉時代より甲斐の守護職を務める。
信玄の父信虎の代に戦国大名の基礎を築き、信玄の代には甲斐・信濃・駿河・近江を支配する最盛期を迎える。

1521年12月1日(大永元年11月3日)、武田信虎の嫡男として生まれる。
幼名を太郎、あるいは勝千代という。
この頃武田は同じ守護代である今川との勢力争いが勃発していた。
1425年に弟信繁が生まれると、晴信は疎まれるようになったといわれている。
1536年、今川氏輝が死去し、今川義元が家督を継ぐと武田と和睦を結んだ。
その和睦により三条家の娘を室とした。
1536年、元服、将軍足利義晴より名を貰い「晴信」と改めた。
1541年父信虎の専断のゆえに家臣団が離反しようとしたため、父を駿河に追放して家督を継いだ。
信虎追放の理由はあまりわからなかったが、甲斐の領民や家臣団からは歓迎されていたという。



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家督を相続した晴信は、家老の板垣信方や甘利虎泰ら家臣の協力のもと基盤を固め、信濃平定に乗り出した。
諏訪氏の内紛に介入し、1542年には伊奈郡の高遠頼継と手を結んで諏訪頼重を滅ぼし、諏訪部を平定。
その後に領土問題から頼継と対立し、1545年には高遠城を落とし、さらに頼継や藤沢頼親も滅ぼして南信濃を完全に平定。
板垣信方を諏訪郡代とする。

1547年、晴信は東信濃の平定を目指して志賀城の笠原清繁を攻める。 
このとき晴信は勝利したものの、捕らえた敵3000人を処刑し、女子供を人質にするなどしたため、信濃平定に大きな障害を生んだ。

この年に分国法である甲州法度之次第を定めた。
甲州法度之次第は 武田信玄が1547年に制定した26条に、その後1554年までに追加制定されたものを合わせて55条が残されている。
「信玄法度」、「甲州法度」とも通称される。
家臣団統制の条項が注目。

1547年、佐久郡に勢力を持つ村上義清を攻めるが、義清は戦上手で、一筋縄ではいかず、1548年の上田原の戦い、1550年の砥石崩れの2度に渡る戦いで晴信は完敗を喫し、板垣信方や甘利虎泰といった多くの家老を失う。
これに乗じ西信濃の小笠原長時が攻めてきたが、晴信はこれを塩尻峠の戦いで破って、1553年には軍師・真田幸隆の策略を持って強敵義清も滅ぼし、信濃をほぼ完全に平定。
が、長時、義清が越後の長尾景虎を頼り落ち延びたことで川中島の戦いが起こる。

1553年善光寺平まで進出した武田方に対し、長尾軍は義清らの救援の為、川中島へ出陣し、武田サイドと衝突し最初の川中島の戦いが起こる。
川中島の戦いは5次に渡って継続的に行われた。
越後の景虎似た移行するため、晴信は子の義信の室に今川義元の娘を迎え、また娘を北条氏康の長男・氏政に嫁がせ、後北条氏とも同盟を結ぶ。
これに乗じ、今川と北条も同盟を結び、甲斐・駿河・相模の三国同盟が成立する。

1559年、晴信は出家し「信玄」と号した。
1561年の第4次の川中島の戦いが最大規模ものものとされており、両軍の死者は6000名に上るといわれている。

1560年、武田氏の盟友であった義元が織田信長によって滅ぼされ、今川氏は衰退の兆しを見せ始めると同盟を破棄し、駿河侵攻を計画した。
このことで長男の武田義信と対立するようになった。
1567年に自分と同じことにならないよう義信を自殺に追い込み、駿河侵攻を開始した。
さらに後北条、徳川にまで信仰し、このころの武田氏の領土は甲斐、信濃、駿河、上野、遠江、三河と美濃の一部までに及んでいた。

1573年、信玄は念願の上洛を目指し、駿河・近江に兵を進めて、織田・徳川連合軍を三方原の戦いで破った。
三河の野田城攻略後に病で倒れ、引き返す途中、伊那駒場にて没。享年53歳。

信玄の側室のほとんどは信玄が滅ぼした家の娘と言われている。

有名な言葉
「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山」
これを風林火山と略し、軍旗に使用した。

武田二十四武将
・武田 信繁  ・武田 信廉  ・一条 信龍  ・板垣 信方
・甘利 虎泰  ・横田 高松  ・飯富 虎昌  ・原 虎胤
・小幡 虎盛  ・小幡 昌盛  ・山本 晴幸  ・多田 満頼
・山県 昌景  ・馬場 信春  ・内藤 昌豊  ・高坂 昌信
・真田 幸隆  ・真田 信綱  ・穴山 信君  ・小山田 信茂 
・秋山 信友  ・原 昌胤   ・三枝 守友  ・土屋 昌次
一般的には上のとおり、これは江戸時代に作られた浮世絵や浄瑠璃によるもので全員が同時期に使えていたわけではない。

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