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ちょっと気になって十代で国家元首に付いたものがいないか、調べたら、ちょうどいい人が見つかった。
ので書いてみる。


ヴィクトリア Alexandra Victoria Wettin


生没年:1819年~1901年
父:ケント公エドワード・オーガスタス
  ジョージ4世の4男。
母:ビクトリア・メアリー・ルイーズ
 (父:ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツ・フリードリヒ)
夫:ザクセン=コーブルク=コーダ公子
  アルブレヒト・アウグストゥス  Albrecht Augustus
  プリンス・コノート アルバート



ヴィクトリア・アデレイド
 (夫:プロイセン王フリードリヒ3世)


エドワード7世 EdwardⅦ
 プリンス・オブ・ウェールズ、コンウォール公、チェスター伯、
 グレートブリテンおよびアイルランド連合国王、インド皇帝。
 1901年60歳で即位。英仏協商を成立させ、また南ア戦争を終結、ドイツ包囲政策を採用。


アリス・モード・メアリー
 (夫:ヘッセン大公ルートヴィヒ4世)


アルフレッド・アーネスト Alfred Ernest
 ケントおよびウルスター伯、エディンバラ公、
 ザクセン・コーブルク・ゴータ公 アルフレート1世


ヘレナ・オーガスタ
(夫:シュレスヴィヒ・ホルシュタイン公子フリードリヒ・クリスティアン・カール)


ルイーズ・キャロライン
 (夫:9代アーガイル公ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル)


アーサー・ウィリアム・パトリック Arthur William Patrick
 コンノート公、サセックス伯、陸軍元帥、陸軍総司令官、カナダ総督。


レオポルド・ジョージ Leopold George
 オルバーニー公、クラーレンス伯。


ベアトリクス
 (夫:バッテンベルク公ハインリヒ)




1837年即位、治世64年。
伯父ウィリアム4世の死により18歳で王位についた。
ハノーヴァーの王権では女子の王位存続を認めなかったため、女王の即位と共に、ハノーヴァー家はイギリス王室より分離し、カンバーランド公アーネスト=オーガスタスが王位を継承。
イギリスはこの時代に牽制が著しく発達し、世界商工業の派遣を握って国力を増進させ、植民地は全世界にまたがり、文芸はビクトリア朝時代として一時期を画した。
1840年、従弟にあたるアルバート公と結婚。
教養の高い夫君の指導もあずかって、立憲君主として国民の敬愛を集め、<君臨すれども統治せず>の女王のもとに自由党・保守党による政党政治が確立。
1861年、42歳のとき夫君アルバート公が病死。
後寡婦として隠遁生活に入った。
1874年保守党のディズレーリの感化により政務に復帰。
1877年インド女帝の称号。
イギリスの黄金時代を確立した。



母ヴィクトリア・フォン・ザクセ=コーブルクはベルギー国王レオポルド1世の姉妹であった。
レオポルドの妻は摂政皇太子(後のジョージ4世)の一人娘で、その次のイギリスの王位継承者であるシャーロット・アウグスタ・オブ・ウェールズであった。
シャーロットは1817年、死産のすえ、産褥で死亡。
ジョージ4世はその後、再婚したり、あるいは他の女性によって子を設けようとはしなかったため直系は断絶。
このためジョージ4世の弟たちはにわかに結婚して、王位継承者となるべき子を設けようとした。
ヴィクトリアの父、ケント公も50歳で結婚した。
アレクサンドラの名は代父であるロシア皇帝アレクサンドル1世による。
ヴィクトリアがいまだ生後8ヶ月のとき、父ケント公は亡くなった。


母ヴィクトリアはドイツ語を母国語とし、ヴィクトリアも3歳まではドイツ語のみを話す生活を送った。
ヴィクトリア個人も生涯ドイツびいきであり、家族間ではドイツ語でしか話をしなかったという。
幼児期に英語の学習を始め、後の古典ギリシア語やラテン語、フランス語も学んだ。また、オペラを好んだため、イタリア語の学習も行った。


ヴィクトリアが10歳のときに伯父ジョージ4世は子供を残さずに亡くなり、その弟ウィリアムが王位を継承した。
ウィリアムには子が無く、ヴィクトリアが推定王位継承者となった。
このころ、母ケント公夫人の行動は目に余るものになっていたが、ヴィクトリアはこの母の影響を受けず、母の弟レオポルドに強く感化されていた。
ウィリアムの死後、ヴィクトリアは18歳で即位し、総理大臣(ウィリアム・ラム)メルバーンの助言により政治を行った。


ハノーヴァー朝の諸王の政治は国民に不人気で、ウィリアム4世が少し回復に貢献していたがわずか7年の治世だったので、女王即位当時ではまだ、王室の権威は失墜してた。
ヴィクトリアの若さと女王であるということは王室の評判を挽回する上で、きわめて効果的であった。
人々がヴィクトリアを慕ったのは、まず彼女の生真面目さであった。
当時、イギリス人は国王一族といえば、スキャンダラスな異性問題や金遣いの荒さが連想され、清潔な道徳的イメージを抱くものは誰一人としていなかった。
しかし、ヴィクトリアは王室始まって以来の優等生といえた。
幼い頃からきかん気で、思い込んだら夢中になる性分から、周囲をてこずらせることはあったにせよ、彼女は王たる者の義務を体得し、なおかつそれを衆目の見守る中で、威風堂々と「見せる」天性が備わっていたらしい。


ドイツ出身のアルバートは始め、イギリスで白眼視されていた。
ヴィクトリアともしばしば衝突していたが、子供が生れるに連れ、ビクトリアはアルバートの采配に満足し、家庭生活に没頭するようになり、女王一家の家庭は、イギリス中産階級の、道徳堅固な家庭生活の模範として憧れの的となった。高潔な人柄と豊かな教養を備えたアルバートは、ヴィクトリアのよき助言者、理解者となって公事でも家庭生活でも彼女を支えた。
わがままなところのあったヴィクトリアが国民に敬愛されるようになったのは、アルバートの力が大きかったらしい。


ヴィクトリアは政治に強い関心を示し、そのため、首相たちもヴィクトリアのために多くの時間を割いていた。
ヴィクトリアは外交こそ君主の固有の任務だと考えてた。
が、産業革命完成期、イギリス資本のための世界市場獲得・原料資源確保、投資地の開拓などを必要としたパーマストン外交は夫妻の好むところではなく、しばしば衝突を繰り返していた。
パーマストンはクリミア戦争でトルコ保全・ロシア抑制の成功、アヘン戦争からアロー号事件・セポイの乱などに勢力を傾け、ヨーロッパでは列強の勢力均衡や非圧迫民族の自由独立など外交では華々しい成果を上げていたが、内政改革には消極的であった。


このパーマストンが首相のとき、アルバート公は病死。
ヴィクトリアは悲嘆のあまり、一切の国政から退いていた。
この隠遁生活があまりに長かったため、共和主義が台頭し、女王不要論まで叫ばれた。
再び公的生活を復帰させたのは、首相になったディズレーリだった。


保守党のディズレーリは第二次選挙法改正を実現、スエズ運河株を買収、インド帝国を成立させた。
自由党のグラッドストンに対抗して、典型的な二大政党による議会政治を指導した。


ヴィクトリアは「君臨すれども統治はせず」の原則に従い、自らの意志を押しつけることは無く、現代におけるイギリス君主のパターンを確立した。




とまあ、簡単に書いてみた。間違っているとこもあるかもしれないが。
カガリとは違うだろうが、こういう人もいたということだろう。
こちらは一応時代と側近が良かったともいえるからな。

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