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2005.07.09 明智 光秀
ゲームが進まないから他の事でも書こう。
ということで、稀代の悪党と呼ばれる人物のことでも描いてみよう。


明智 光秀


生没年:1528?~1582


安土桃山時代の武将。
通称、十兵衛。
織田信長に仕え、近江坂本城主となり惟任(これとう)日向守と称。
信長の武将として京都市政を担当。
ついで、丹波亀山城主となり毛利攻めの支援を命ぜられた。
が、1582年中国攻めに出陣の途次、本能寺にて信長を倒す。
わずか13日で豊臣秀吉に山崎の戦で敗れ、居城近江坂本への帰途、京都郊外小栗栖で農民に殺される。





妻は土岐郡妻木村城主範熙の娘、熙子(ヒロコ)。
子に細川忠興の室、玉(洗礼名:ガラシャ)がいる。


織田信長の家臣だったが、信長にいじめられ、それに絶えかねて主君に刃を向けた。
信長を倒し、安土城も落城させたが、信長の家臣だった豊臣秀吉に敗れた。


信長の家臣の中では有能な人だったらしい。
有能でも秀吉ほどの積極性はなく、ぎりぎりのところまで追い詰めなければそこまでの力を発揮しなかった。
そのため、信長は光秀を追い詰めて力を発揮させていたらしい。


光秀の前半生は不明な部分が多い。
諸国放浪をしていたと言う話は聞くがどこにどういったのかなどは不明であるし。


いつ織田の家臣になったのかがよく分からない人。
元々は、どこから来たのかは諸説あり、織田の譜代家臣ではないようだが。
明智姓が美濃土岐氏の支族の姓のため濃姫と繋がりがあるとも言われている。
足利家の家臣であるという話もある。
そのため、光秀の信長に対する反抗は、独断と言われていたが、ここ最近では足利義昭の陰謀だったと言う説もある。


光秀の家臣に、斎藤利三というのがおり、それの子が福。後の春日局である。
織田信長の姪である徳川秀忠の正室、お江与の方と仲が悪かったのはそのためでもあると言う。


光秀は山崎の戦に敗れ、坂本城へ戻る途中、京都郊外で農民に殺されたと言うが、
それに関して、そこで死んでないと言う話もある。
そこでは死なず、徳川家康の懐刀と呼ばれた南海防天海が明智光秀であったと言う説もある。
ちょうど天海が出てきたのは明智が死んだ以降のことであるからだろう。
天海に関しても、分からない事は多いし。


光秀の妻は賢妻と呼ばれるほど人だったらしい。
まだ、貧困の中にいた光秀に、自分の髪を売って客をもてなしたと言われている。


この玉も、光秀が反乱を起こしたとき、忠興の機転で、一時的に離縁し幽閉され、秀吉の追及を逃れた。
まあその後、関が原の時に石田三成の人質になるのが嫌で、家臣に自分を殺させた人だが。


簡単に知っているのはこのくらい。
まだ何かあったと思うが、思い出せない。














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