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2006.02.20 藤原 頼長
保元の乱の元凶の一人で兄・忠通と戦った藤原頼長について書いてみる。
能力はあっても自我が強すぎたために失敗したのかな、この人は。
父に可愛がられていたが最後には見捨てられているし、なんかもうひとつ足りなかった人なのだろうと思う。味方が思った以上に少なかったこともあるだろうが・・・。

藤原 頼長

生没年:1120年~1156年

父:関白・藤原忠実
養父:藤原忠通
母:土佐守・藤原盛実の娘

妻:藤原幸子(大徳寺実能の娘)


幼名は菖蒲若といったという。
幼時より令名高く、膨大な和漢の書を読み「日本一の大学生、和漢の才に富む」とその学識の高さは評価されていた。
しかし彼は酷薄で他人に容赦ない性格であり「腹黒く、よろずにきわどき人」とも評され、悪佐府と呼ばれた。
父・忠実に愛され若くして高位に進む。
1130年、元服して従五位に叙せられ、侍従、近衛少将、伊予権守などに任官。のち、右近衛権中将となった。
1131年、従三位。
1134年、権大納言。
1136年、内大臣、右近衛大将を兼ねる。
1139年、皇太子傅となり、左近衛大将となる。
1149年、左大臣となる。

兄・忠通は正室の所生だが、温厚な性格であったことを嫌い、頼長を偏愛したという。
頼長は一時は忠通の養子だったこともあったが、忠通に実子が生まれるとその関係は終止符が打たれ、父を後ろ盾に兄・忠通と出世を争った。
1150年、妻の兄・藤原公能の女・多子を養女として近衛天皇の後宮に納め皇后に冊立する。
これは天皇の外祖父になることで権力を確立させようとした。
その年、父より兄・忠通の氏長者をとって与えられた。
頼長は源義為、源頼賢の兵を率い、忠通の別邸を襲い氏長者の院たる朱器盤台を奪い自分のものとした。
1151年、忠実の尽力により内覧の宣旨を受ける。
執政の座に就き、朝議復興に辣腕をふるい鳥羽法皇の信頼厚く兄を超えて権勢が高くなった。
しかし、近衛天皇からは嫌われていたという。
1155年、近衛天皇が亡くなり、忠通と美福門院の推す後白河天皇が即位すると状況は一変することになる。
近衛天皇の死が頼長らによる呪詛によるものとするその母・美福門院良の恨みから法皇の信を失い内覧を停止され、失脚することになる。
頼長は局面の挽回のために当時父・鳥羽天皇に迫られ譲位して強い不満を抱く崇徳上皇に接近する。
1156年、鳥羽天皇の崩御により政権奪取を図る、保元の乱を起こす。
崇徳上皇の御所・白河殿に源為義、平忠正らの武士を集め、後白河天皇方も源義朝、平清盛らを集め一触即発の緊張が高まった。
戦闘は数の勝る天皇方の勝利に終わり、頼長は流れ矢が目にあたり重症を追う。
逃れた頼長は父・忠正に対面を望むが拒まれ失意のうちに興福寺にて死んだという。

頼長の死後、子供達は流罪となり、地方に送られそのほとんどはそこで亡くなっている。
唯一生き残って都に戻ることが出来た藤原師長は父・頼長でさえ果たせなかった太政大臣まで昇進するものの今度は平清盛によって再度流罪にされる。

宇治左大臣、悪太府などと言われるが、当代の俊英策略家の信西入道とは親交があったという。
日記「台記」は極めて内容豊かで、その学識と当時の政界の内情が良く書かれているという。
また自身のこともかかれてあり男色家だったという。



子:
藤原兼長   生没年:1138年~1158年
藤原師長   生没年:1138年~1192年
藤原隆長
範長

養子:多子  生没年:1140年~1201年  近衛天皇皇后
(実父:正二位右大臣・藤原公能) 

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