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2006.02.18 藤原 忠通
藤原忠実の嫡男・忠通のついて書いてみる。
鳥羽・崇徳・近衛・後白河の4代・38年に渡り摂関を独占していた。

藤原 忠通

生没年:1097年~1164年
在位:1121年~1123年 関白
   1123年~1129年 摂政
   1128年~1129年 太政大臣
   1129年~1141年 関白
   1141年~1150年 摂政
   1149年~1150年 太政大臣
   1150年~1158年 関白

父:関白太政大臣・藤原忠実
母:源師子(右大臣・源顕房の娘)

妻:藤原宗子(藤原宗通の娘)
加賀局(藤原仲光の娘)
源俊子(源国信の娘)
中院信子

法性寺殿、関白殿と呼ばれた。
1107年、元服し正五位下に叙され、昇殿、禁色を許され、また侍従に任じられる。
1110年、右少将、右中将を経て、正三位。
1111年、権中納言に就任し、従二位に昇る。
1112年、正二位。
1115年、権大納言となり、後内大臣となる。
1121年、白河院の不興を買った父・忠実に代わって藤原氏の氏長者となり、鳥羽天皇の関白に就任。
のち左大臣、従一位に任じられる。
1128年、崇徳天皇のとき、太政大臣となる。
近衛天皇代にも摂政・関白を務める。

1129年、白河院崩御後、政界に復帰した父と対立を深める。
一般には父・忠実が弟・頼長を寵愛するあまり、摂政・関白の座を弟に譲るように圧力を掛けられたように言われているが、実際には長い間、家を継ぐべき男子に恵まれなかった。
その為29歳のときに24歳下の頼長を一度は養子に迎えている。
だが40過ぎてから次々と男子に恵まれるようになった忠通が実子に家を譲るために頼長との縁組を破棄したためであった。

1150年、父から義絶されて弟・頼長に氏長者職を譲らされる。
以後、美福門院に接近し、後白河天皇の即位に伴い忠実・頼長は失脚し復権する。
その際の父や弟の対立が保元の乱の原因となる。
1158年、二条天皇の践祚にあたり関白職を嫡男・藤原(近衛)基実に譲った。
1162年、出家して円観と号した。
1164年、没す。享年68歳。

生前より能筆は誉れ高く、その書風は法性寺流と呼ばれ重宝されたという。
肉太で丸みと力強さを兼ね備えた生々しいものであると言う定評がある。
また、詩歌に長じており、百人一首にも選ばれている。
法性寺入道前太政大臣
「わたの原 漕ぎ出てみれば久方の 雲ゐにまがふ 沖つ白波」



子:
近衛基実  生没年:1143年~1166年
松殿基房  生没年:1145年~1231年
九条兼実  生没年:1149年~1207年
藤原兼房  生没年:1153年~1217年
慈円    生没年:1155年~1225年
覚忠    生没年:1118年~1177年
藤原聖子  生没年:1122年~1181年  崇徳院妃、皇嘉門院

養子:
藤原育子(実父:源顕俊)  生没年:1146年~1173年  二条天皇妃
藤原呈子(実父:藤原顕隆) 生没年:1131年~1176年  近衛天皇妃、九条院
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