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2006.02.17 藤原 忠実
保元の乱の当事者の一人、藤原忠実のことについて書いてみる。
保元の乱は摂関家が天皇家親政の院政に押されたために起きたことにもなるのかな。

藤原 忠実

生没年:1078年~1162年

在位:
1105年~1107年 関白
1107年~1113年 摂政
1113年~1121年 関白

父:藤原師通
母:藤原全子(藤原俊家の娘)

妻:
源師子(源顕房の娘)
藤原盛実の娘

子:
藤原泰子  生没年:1095年~1155年  鳥羽院皇后・高陽院
藤原忠通  生没年:1097年~1163年
藤原頼長  生没年:1120年~1156年


1188年、元服し正五位下となる。
1091年、従三位非参議。
1099年、父・師通が急死し、その後継を巡って一族が争う中、白河院の「摂関家は嫡流に」という判断で忠実が後継者となる。
祖父・藤原師実の養子となり、大納言、内覧、氏長者となる。
のち左近衛大将。東宮傅。
このため、摂関家は完全に院政の風下に立つことになる。

1100年、右大臣となる。
1105年、堀川天皇に関白を命じられる。
1107年、鳥羽天皇の即位にともない摂政となる。
1112年、従一位・太政大臣となるが翌年辞職する。
1113年、摂政から再び関白に転じる。
娘・泰子の入内問題また長男・忠通と白河院の養女・璋子の縁談話を断るなどで白河院の怒りを買うようになる。
1119年、上野荘園は停止。
1120年、内覧を停止するが翌年には復帰している。しかしすぐに関白を長男・忠通に譲り宇治へ隠居する。
1131年、鳥羽院政が始まると政界に復帰を果たす。その為か鳥羽院よりの忠実は長男・忠通とは不仲になる。
忠実は才気ある次男・頼長を偏愛し、忠通と対決する。
1133年、娘・泰子が鳥羽上皇に入内。
1140年、内覧となり、実質上の関白となる。また准三宮となった後出家している。。

1150年、宇治長者を忠通から奪い、頼長に与えた。
1151年、忠実の尽力により頼長は内覧の宣旨を受け、一時は権勢は忠通を凌ぐほどになる。
1155年、近衛天皇が子なく崩御し、忠通の推す後白河天皇が即位すると頼長は失脚してしまう。
頼長は崇徳天皇に接近していた。
1156年、保元の乱が起こる。
敗れた頼長は忠実に対面を望むが忠実は拒み、頼長は失意のうちに死んだ。
乱後、罪を問われる罪になりかかるが、忠通のとりなしで罪を逃れ、以後は奈良の知足院に隠棲する。
だが、それも親子愛からではなく忠実の摂関家の所領が罪人の財産として没収されることを忠通が恐れたからだといわれている。

そうした事情の為か、忠通の息子である慈円は祖父である忠実が死後怨霊となって祟りをなしたと記述している。
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