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2006.02.16 藤原 信頼
藤原信西と対決した藤原信頼のことについて書いてみる。
同じ舞台でのあいては無理で、策を弄し武家をそいだまでは良かったがその後は全く考えていなかったのか・・・、詰めが甘すぎたのはどこもおなじか。

藤原 信頼

生没年:1133年~1159年

父:従三位・藤原忠隆
母:藤原顕頼の娘
妻:藤原基実の姉?

子:
藤原信親
平清盛の娘と婚約する。
侍従、従五位下となる。
1159年、平治の乱で父に連座され、成長後伊豆国へ配流となる。



1144年、従五位下となり、土佐・武蔵守や近衛中将を歴任する。
後白河天皇に近侍し、周囲に「あさましき程の寵愛あり」言われるほどの寵を被るようになる。
1158年、参議となり後、権中納言に昇進する。
後白河天皇の退位後は院の別当となり強大な権力を持つようになった。
「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」という評価であったという。
体格は肥満色白であり、衆道も好んだ後白河天皇に愛され、宮中では人目もはばからぬほどの寵愛ぶりだったといわれている。

近衛大将を望むが、院近臣・藤原通憲と争い阻止される。このため信頼は通憲を深く憎むようになったという。
通憲と平清盛が連携する中で孤立化して、なお通憲を深く憎む源義朝に近づくようになる。
のち、権中納言近衛中将となる。
1159年、清盛が熊野詣のため京都を留守にした隙を伺い、通憲を除くクーデター(平治の乱)を起こした。
脱出した通憲を追い殺害し、大内裏を占拠し二条天皇と後白河院を囲って政権を掌握する。
有頂天になった信頼は除目を行い自ら近衛大将に任じ、一味の公家にも官位を濫発した。

この時信頼は平家殲滅の意図は無く、むしろ義朝勢力の増大を嫌う、その為義朝の長男・義平が阿倍野へ出陣して平家を迎え撃つ策を進言するが、これを却下する。
平家とは和睦して後々源平両氏を対立させ、漁夫の利を得ようと画策するためとみられる。
しかし、急遽京都に戻った清盛の軍勢は信頼の隙をつき天皇と上皇を脱出させ迎え入れてしまう。
信頼・義朝追討の宣旨を受けた清盛との間で合戦となる。しかし、義朝らの奮戦にもかかわらず敗北してしまう。
平時物語などでは信頼の臆病ぶりが見られるという。

逃れた信頼は義朝と共に東国へ逃れようとするが、義朝より「日本一の不覚人」と罵られ拒絶されてしまう。
そのため仁和寺に逃げ込み御室・覚性法親王に頼み助命を願ったが許されず、平氏に捕らえられその糾問を受けた。
清盛の息子・重盛は助命しても不都合なしと言ったといわれるが、清盛はそれを聞かず謀反の張本人とした。
信頼は六条河原で斬られた。首の座になおっても、なおもがき悶え、押さえつけてようやく首を掻き切ったと言われる。享年27。

信頼は源頼朝の烏帽子親にあたり「頼朝」の名も「信頼」の「頼」から取ったものという。
信頼の評価を見直す動きがあるそうだが、かなり難しそうな気もする。
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