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藤原信西の子らについて書いてみる。
ほとんどが平原の乱の際、信西に連座し配流となっているが、すぐに戻されている。初めから出家しているものが多く、仏教関係で名を上げたものも多い。

藤原俊憲
   生没年:1122年~1167年
 母は高階重子。養父に参議・藤原顕業。
 1144年、大学権助。
 1155年、東宮学士。従五位上。
 1156年、右少弁。のち記録所の弁
 1157年、美濃権介。正五位下。右衛門佐・検非違使。左少弁。五位蔵人。
 1158年、権右中弁。従四位下。従四位上右中弁・蔵人頭。
 東宮学士止職。権左中弁。
 1159年、参議となるが、平治の乱で解官。配流。
 1167年、没。
 妻は三条公教の娘。子に藤原基明。


藤原貞憲
   生没年:1123年~?
 母は高階重子。
 1152年、刑部少輔。
 1154年、従五位上。鳥羽院判官代。
 1156年、少納言。
 1157年、兵部権大輔。正五位下。
 1158年、右衛門権佐。検非違使。摂津守、権右少弁。五位蔵人となるが摂津守は辞職。
 1159年、従四位下権左少弁、蔵人、右衛門権佐は離職する。権右中弁のち解官。
 平治の乱で土佐に配流が決定する。
 1160年、配流にならず出家し高野山で隠遁生活を送る。
 子に解脱上人と呼ばれた藤原貞慶、藤原光憲、藤原貞覚がいる。


藤原是憲
 母は高階重子。
 1149年、飛騨守。
 1156年、高伊
 1158年、信濃守。従五位上少納言。
 平治の乱で父・信西に連座して下官、配流。
 後出家して、遊蓮房円照と号した。また信濃入道とも呼ばれた。
 西山広谷に住し、始め法華経を学んだが、のち一向念仏に転じ、念仏現証の人として一族は仏のように尊敬したという。
 円照の臨終に際し法然上人を臨終に善智識に迎えた。
 法然は9編の念仏までしか出てこない円照に「もう一遍」と励まされ、10遍の念仏により往生したという。


藤原成範
   生没年:1135年~1187年
 母は藤原朝子。桜を好み、住居付近に桜の木をたくさん植えていたので桜町中納言と呼ばれた。
 従五位下。左衛門佐。
 1156年、遠江守
 1157年、左少将。美福門院判官代。正四位下。
 1158年、左中将・播磨守。陸奥、近江守。
 1159年、平治の乱により下野へ配流。成憲から成範へ改名する。
 また平清盛の長女と婚約していたが、このとき解消されたという。
 1166年、三位。のち左兵衛督となる。
 1167年、参議。右中弁。民部卿。太宰第弐。権中納言となる。
 1183年、正二位・中納言となるが、後辞職している。
 1187年、出家。のち逝去。
 子は藤原基範と高倉天皇の寵愛を受けた小督がいる。


藤原脩範
   生没年:1143年~?
 母は藤原朝子。
 1156年、昇殿。蔵人、飛騨守となる。
 1157年、美濃守、左兵衛佐。左少将。
 1159年、右少将となるが、平治の乱で隠岐に配流。修憲から脩憲へ改名する。
 1174年、式部少輔のち、従三位左京大夫。
 1179年、娘が平忠房の妻になる。右近衛少将。参議。兵衛佐。となる。
 1183年、正三位参議に至るが、醍醐寺で出家。
 歌に秀でており、「別雷社歌合」の作者である。
 福原の都に出向き、生田で和歌を詠んだものが続古今集に掲載された。
 子に藤原範能と娘は平忠房の室。


静賢
   生没年:1124年~?
 母は高階重子。静憲とも呼ばれた。
 法勝寺執行法印。
 1159年、平治の乱に連座して安房の国に流されたが、のち許されて帰京する。
 後白河法皇の側近として、交渉役を務めるなど政界で活躍した。
 1170年、住吉社歌合にでている。
 俊成・顕昭・慈円らと親交があった。
 『治承三十六歌合』に選ばれている。


澄憲
     生没年:1126年~1203年
 法勝寺執行。天台僧。
 蓮行房・安居院法印ともごうする。
 珍兼に師事し天台教学を学ぶ。初め比叡山北谷竹林院に、その後は竹林院の里房である安居院に住した。
 1159年、平治の乱で父に連座し下野に配流されるが、間もなく帰京。
 1174年、最勝講で祈雨法を修して権大僧都に任じられる。
 1177年、明雲から一心三観の血脈を相承した。多くの法会で導師を務め、説法唱導の名手といわれ、安居流唱導の祖といわれている。
 二条天皇皇后に姝子内親王と密通していたという。
 子に八条院高倉、海恵、聖覚がいる。


藤原寛敏
   生没年:?~1182年
 広隆寺別当、法橋となった。
 平治の乱の際、父に連座し上総国に配流。


憲耀
 玄用法印と呼ばれた。
 平治の乱の際、陸奥国へ配流される。


覚憲
   生没年:1131年~1213年
 法相宗の僧。
 宝積院僧正・壺坂僧正とも称される。
 興福寺に入り蔵俊に師事して法相・唯識を学び、藤原頼長から将来を嘱望された。
 平治の乱の後、父に連座し伊豆に配流となった。一説には伊予国とも。
 1175年、奈良大安寺の別当を命じられた。
 1180年、興福寺権別当となる。
 1189円、興福寺別当となり、興福寺の復興に努めた。
 1190年、権僧正となった。
 1195年、壺坂寺に隠棲した。
 唯識論の注釈に大きな功績を残した。


明遍
   生没年:1142年~1224年
 1159年、平治の乱にあい、越後国に配流となる。
 赦免された後、東大寺で三論宗を学んだ。
 50過ぎてから遁世して高野山に入山し、蓮花三昧院を開創した。
 法然の門下となり専修念仏に帰依した。


勝憲
   生没年:1138年~1196年
 初名は勝賢。侍従僧正・覚洞院権僧正とも呼ばれた真言宗の僧。
 仁和寺の最源に師事する。
 1159年、権律師となりのち醍醐寺の実運の灌頂を受け、また常喜院の心覚からも受法。
 平治の乱の際、安芸国に配流されるがすぐに帰京している。
 1160年以降、醍醐寺座主に三度任じられるが、一時同門の乗海の反対により高野山に逃れている。
 後白河法皇の安泰や祈雨、孔雀教法などを修し、東寺長者、東大寺別当などを歴任する。
 1185年、権僧正となる。


以降は詳細不明。
光憲
行憲   園城寺、少納言、阿闍梨
憲俊   園城寺、己講
寛兼
憲慶   園城寺、阿闍梨
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