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鳥羽上皇の后妃美福門院と高陽院について書いてみる。
この2人は白河上皇の死後に鳥羽上皇の后として院御所に入っている人たち。この二人は待賢門院と対立していたとされる人かな?

藤原得子[美福門院]
   生没年:1117年~1160年
 
父:権中納言・藤原長実
母:左大臣・源俊房の娘

藤原北家末茂流に生まれ、六条大夫顕季の孫娘にあたる。
類希な美貌の持ち主だったという。
1134年、この頃鳥羽上皇に召され、大いに寵愛された。
1139年、息子・躰仁親王の立太子の折りに、東宮の母であるが故に、女御宣下を受ける。
1141年、崇徳天皇に譲位を迫り、近衛天皇を即位させた、国母となり皇后に立てられる。
1149年、美福門院の院号を宣下され、中宮・待賢門院をも凌ぐ権勢を持つようになった。

その頃、摂関家の家長に地位にある大殿・忠実は、長子・忠通よりも末子・頼長を偏愛していた。
頼長は美福門院のことを「諸大夫の女」と目し蔑んでいた。
そこで美福門院は時の関白・忠通と手を結び、彼の養女・呈子を猶子としてわが子・近衛天皇に入内させる。
このことで、頼長の養女である近衛天皇皇后・多子に対抗させた。

1155年、病気がちだった近衛天皇が夭折すると、美福門院は崇徳上皇や忠通、頼長父子の呪詛によるものだと大いに恨んだ。
次代の帝として、世人は崇徳上皇の第一皇子で美福門院の養子ともなっている重仁親王が即位するものだと思っていた。
しかし、崇徳を恨んでいた美福門院は鳥羽法皇に働きかけ、法皇の第四子・雅仁親王を即位させてしまう。
その意図は、末娘・姝子内親王との縁談があった雅仁親王の第一皇子・雅仁親王の擁立にあったという。

こうして皇統継承から排除され不満が募る崇徳上皇と美福門院によって鳥羽法皇から遠ざけられた頼長とその父・忠実が結びつくようになる。
1156年、鳥羽法皇の崩御間もなく保元の乱が勃発する。
美福門院はすでに落飾し真性定と称していたが、この乱においては卓抜的な戦略的な手腕を見せ、平清盛兄弟などを召致し、後白河天皇方へ最終的な勝利を導いた。

1160年、金剛勝院御所において崩御する。
「殺生石」の主人公である白面金毛九尾の狐「玉藻の前」のモデルとも言われている。

子:
叡子内親王  生没年:1135年~1148年
子内親王  生没年:1137年~1211年  八条院、二条天皇准母
躰仁親王   生没年:1139年~1155年  近衛天皇
姝子内親王  生没年:1141年~1176年  高松院、二条天皇中宮



藤原泰子[高陽院]
    生没年:1095年~1155年
父:関白・藤原忠実
母:源師子(右大臣・源顕房の娘)

摂関家の嫡妻腹と言う高貴な血筋によって、幼少より后がねの姫として育てられたという。
1108年ごろ、初め、白河法皇への出仕を要請されたが固辞した。
後に鳥羽天皇が自分の後宮への入内を望んでいると知ると忠実は積極的に応じ、白河法皇の勘気を被ったという。
また、院の養女・藤原璋子と嫡子・忠通の縁談も断った。
1120年、父・忠実は関白を罷免、内覧を止められ、宇治へ蟄居させられ、入内は行われなかった。
泰子の身の振り方について頭を悩ました忠実は伊勢の大神宮に使いを遣わし祈祷をさせたとの記録まであるそうだ。

1133年、白河法皇の死後、鳥羽上皇の宮へ入り、廷臣の反対を排しながらも上皇の妃として女御宣下。
1134年、また異例ながらも立后が行われた。
1139年、院号宣下。
子はおらず、比較的に仲が良かった為か美福門院の子・叡子内親王を養女とする。
叡子内親王は高陽院姫宮と呼ばれ、泰子の寵愛を受けて育ったという。
1141年、出家する。
1155年、崩御。
泰子は父・忠実と異母弟・頼長をよく庇護していたという。
近衛天皇が夭折した以降も、美福門院や忠通の讒言によって鳥羽院から疎遠されていたが、泰子がその間に立ち重要な緩和作用を果たしたともされる。
しかし、泰子が亡くなると後ろ盾をなくした忠実・頼長の立場は危うくなり、保元の乱へと発展することとなった。
高陽院泰子は、40歳近くになって入内が行われたためか極端な男嫌いであったといわれている。

猶子:叡子内親王(実母:美福門院)
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