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2006.02.07 崇徳天皇
保元の乱での後白河と並ぶもう一人の主役。
しかし、この人は天皇としてよりも怨霊としての方が有名かもしれない。

顕仁親王

生没年:1119年~1164年
在位:1123年~1142年 第75代 崇徳天皇

父:鳥羽天皇
母:待賢門院璋子(藤原公実の娘、養父:白河院)

鳥羽天皇の第一皇子だが、父・鳥羽院からは疎んじられていた。
崇徳天皇が鳥羽院の実子ではなく祖父・白河法皇と待賢門院の間に出来た子であるからといわれている。
鳥羽院は崇徳院のことを「叔父子」と呼んでいたとも云われている。
実際、崇徳院は曾祖父である白河院から寵愛されていたという。
鳥羽院は白河院から強引に皇位を取り上げられ、その後を継いだのが崇徳院である。

1119年、親王宣下。
1123年、白河法皇の影響下の下、立太子され、鳥羽天皇から譲位され、5歳で皇位に就く。
1141年、白河院が死ぬと上皇となった鳥羽院により退位を強要される。
美福門院の子で異母弟である近衛天皇に譲位し、上皇となる。
崇徳は院政を行おうとしたが、鳥羽院に実権はあり、それはかなわなかった。

近衛が子を無くして若くして死に、再度自分が皇位に就くか、わが子・重仁親王に皇位を就けようと期待したが、近衛の母である美福門院が「近衛の死は崇徳の呪いの所為」と鳥羽院に訴えた。
怒った鳥羽院は自分と待賢門院の間に出来た後白河天皇を皇位に就けた。

1156年、このような鳥羽院の仕打ちに起こった崇徳は鳥羽院崩御の直後に重仁親王の皇位継承と治天の君となることを目論見、源為義ら武士を率いてクーデターで権力を得ようとしたが、失敗する。
乱後、仁和寺にて出家し、讃岐国への流刑に処された。

讃岐での軟禁生活では常におとなしく過ごし、仏教に深く傾倒したという。
経典の写本作りに専念し、完成した五つの写本(華厳経、大集経、大品般若経、法華経、涅槃経)を父鳥羽院の墓前に供えて欲しいと朝廷に願い出た。
しかし、後白河法皇の近臣・藤原信西はこれを拒否し、写本を送り返したという。
これに激しく起こった崇徳は自分の舌を噛み切って、その血で写本に呪いの文章を書き、更に「この経典の力を持って天皇家を永遠に呪い、民を皇に、皇を民にする」といったと言う。
また自らを「日本国の大魔王」と称して爪や髪を伸ばし上げ、夜叉のような姿になったという。
1164年、そのまま讃岐で崩御したため、讃岐院と呼ばれていた。

和歌に通じており、百人一首に載っている。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」

白峰神社には御霊となった崇徳院を祀っている。
「崇徳」という謚名は死後に贈られた名である。
「崇」は「祟り」と字が似ていることから贈られたとも、「徳」という字には怨霊封じを意味しているという。
「崇徳院」は日本最大の怨霊とも恐れられていた。



后妃
中宮:藤原聖子  生没年:1122年~1181年
 摂政関白・藤原忠実の娘。

(源帥経の娘)
女房:兵衛佐局(法勝寺執行・信録、大蔵卿・源行宗の養女)



子:
重仁親王  生没年:1140年~1162年
 母は兵衛佐局とされる。
 1140年、美福門院の猶子とし皇位継承をつなごうとしていた。
 1141年、親王宣下。
 1150年、元服。
 1155年、近衛天皇が崩御すると父・崇徳上皇は重仁親王の即位を望むが鳥羽法皇は雅仁親王を即位させてしまう。
 これに強い恨みを抱き保元の乱を起こす。
 乱後、重仁親王は仁和寺に入り出家した。
 寛暁大僧正の元で仏道に励んだと云う。
 1162年、足の病により死去。

覚恵
 詳細不明
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