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後白河院の皇女らについて書いてみる。
公家と武家の間での動乱期だからか、あまり幸せに過ごした人物は少なそうだ。まあこの時代内親王などの結婚はご法度に近かったのも理由かな。

亮子内親王(殷富門院) 生没年:1147年~1216年  
 母は藤原成子。後白河天皇の斎宮。
 1156年、内親王宣下により伊勢斎宮に。
 1158年、伊勢に郡行せぬまま後白河天皇の退位により伊勢斎宮も退下する。
 1182年、安徳天皇の准母として皇后になる。
 1183年、平氏西下により後鳥羽天皇の即位、後鳥羽天皇の准母となる。
 1187年、院号宣下。
 1192年、後白河法皇の死により出家する。
 1216年、70歳で崩御。



好子内親王       生没年:1148年~1192年
 斎宮 在位:1158年~1165年
 母は藤原成子。二条天皇の斎宮。
 二条天皇譲位により退下。
 1192年、45歳で崩御。



式子内親王       生没年:1149年~1201年
 大炊御門斎院 在位:1159年~1169年
 母は藤原成子。高倉三位と呼ばれていた。
 1159年、斎院として賀茂神社に奉仕する。
 1169年、病のため斎院を退下する。
 1185年、准三后の宣下を受ける。
 1190年ごろ、出家し、法名は承如法と称した。
 1192年、後白河院が崩御。この後橘兼仲と歓心の陰謀事件に巻き込まれ、一時洛外追放を受ける。
 しかしその処分は沙汰やみとなったという。
 1196年、失脚した九条兼実より明け渡された大炊殿に移る。
 1200年、東宮・守成親王(後の順徳天皇)を猶子とする話があったが、その前に崩じた。

 藤原俊成の和歌の弟子であり、藤原定家と恋愛関係にあっという。
 「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする」
 百人一首にも入っている有名な歌。



覲子内親王(宣陽門院) 生没年:1181年~1252年

 母は高階栄子(丹後局)。長講堂領拝領。
 初め後鳥羽天皇の后にと擬せられていたそうだ。
 若干11歳で女院号を宣下される。
 1192年、後白河法皇より長講堂領をはじめとする莫大な所領を譲り受ける。
 これは母・丹後局の権勢の現われともいえる。
 25歳で出家し、法名は性円智と称されたそうだ。
 後白河院死後の後鳥羽院政期には長講堂領は実質的に後鳥羽院が管領していた。
 しかし、承久の乱後に宣陽門院が回復した。
 1251年、後嵯峨院の要請により後深草天皇に譲与されることとなる。



休子内親王       生没年:1158年~1172年
 斎宮 在位:1166年~1168年
 母は藤原成子。
 六条天皇の斎宮。
 六条天皇譲位のため野々宮より退下。
 1171年、15歳で死去。



惇子内親王       生没年:1157年~1172年
 高倉天皇の斎宮。
 母は藤原公能の娘。
 堀川斎宮と称されていた。
 斎宮にて病死。享年15歳。
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