上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ご白河院の第二、第三皇子について書いてみよう。
守覚法親王は出家しているため、以仁王が第二皇子となる場合もある。

守覚法親王

生没年:1150年~1202年

父:後白河院
母:藤原成子
養母:八条院

仁和寺喜多院御室。
初名は守性、後に守覚と改める。北院御室と呼ばれた。
1161年、覚性入道親王に師事して仁和寺で出家。
1168年、伝法灌頂を受ける。
1169年、覚性入道親王が没した後、その後をついで仁和寺御室に就任した。
四円寺や六勝寺の官吏を勤め、様々な御願修法を行い、仁和寺の中興の祖として仏教界の頂点にあった。
高倉帝の第一皇子・言仁親王誕生の際、出産の祈祷を行ったという。
1183年、平家の都落ちの為、寵愛していた平経正に下賜してい琵琶「青山」が返上される。
1202年、死去。享年53歳。
和歌に優れ、家集『守覚法親王集』『北院御室御集』がある。
また、学才に優れ仏教関係の著者に『野目鈔』『左記』『右記』、日記に『北院御日次記』などがある。




以仁王

生没年:1151年~1180年  

父:後白河院
母:藤原成子
養母:八条院

邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮・高倉宮とも称された。
幼少の頃から才能に優れ、学問・詩歌、特に書や笛に秀でていたが、親王宣下が得られず、不遇をかこっていた。
延暦寺座主・最雲法親王の弟子となる。
1164年、最雲没するも、出家せず元服する。最勝王と自称したという。
最運から九条の城興寺を伝領し、また八条院の猶子となる。
八条院の猶子となったことで皇位継承者に近づいていたとされる。
しかし、高倉退位後は安徳天皇がつき皇位への道は絶たれた。

1179年、治承のクーデターで城興寺領を没収される。
1180年、源頼政の勧めで平氏追討の令旨を諸国源氏に下し、挙兵を促した。
しかし直ちに令旨が熊野権別当・湛増により平氏側に発覚したため、後白河上皇は以仁王を土佐国に配流しようとした。
その前に平氏が軍兵を三条高倉へ差し向け囲んだ。
以仁王は頼政と共に園城寺に逃れ、更に奈良に逃れようとしたが、平知盛、重衡の軍に追撃され宇治平等院で戦った。
光明山麓加幡河原にて流れ矢により戦死する。没年30歳。

皇族殺害の汚名を恐れた平清盛により源氏姓を賜与され源似光に改名されたという。
平氏討伐の計画は失敗したが、以仁王の令旨を受け取った各地の源氏が挙兵し、平氏滅亡の起爆剤となったことは確かである。

以仁王の謀反の動機は頼政の嫡男・仲綱の愛馬・木の下を巡る平宗盛との軋轢とされる。
しかしこれは当時頼政が高齢であったことと以仁王は六条天皇の次の天皇として憲仁親王(後の高倉帝)の有力なライバルであったという。
そう考えると、以仁王が頼政に計画を持ちかけた可能性のほうが高い。
また、後白河法皇の幽閉や摂政・松殿基房の流罪など清盛による強圧的な政策に対する反感の広まりであるという説。
以仁王の養母で朝廷内に大きな影響力のあった八条院も関与していたとする見方もある。
その証拠に令旨に応じた武士団の中には八条院の所領を預かるものも多数含まれていたという。


子:北陸宮
 母は八条院女房?
 北陸宮は通称で本名は伝わっておらず、存在というかその血筋を疑われている。
 また木曾宮、加賀宮とも呼ばれた。
 1182年、出家し、乳母夫・讃岐前司重季に守られ北陸道から越後国へ逃れた。
 しかし、源義仲が平氏追討のために還俗し元服させた。
 北陸宮を擁し、北陸道から都へ攻めあがった。
 平家の都落ち後、安徳天皇に代わる天皇に惟明親王、尊成親王、北陸宮と候補に挙がった。
 しかし、義仲が推挙していた北陸宮が選ばれることはなかった。
スポンサーサイト

Secret

TrackBackURL
→http://bxneko.blog12.fc2.com/tb.php/296-5d00c1d3
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。