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2006.01.27 後白河天皇
源平合戦の影の主役であった後白河法皇のことでも書いてみよう。
源平から見ればただの大ダヌキ。天皇側から見ればただ天皇家の権威を守ろうと尽力した人なのかもしれない。

後白河天皇

生没年:1127年~1192年
在位:1155年~1158年、第77代天皇

父:鳥羽天皇
母:待賢門院璋子(藤原公実の娘)


名は雅仁、法名は行真と言う。鳥羽天皇の第4皇子であった。
「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と父・鳥羽天皇に酷評されていたという。
1155年、異母弟である近衛天皇の死去により、立太子しないまま践祚。
これは崇徳上皇の復位、あるいはその皇子・重仁親王の即位を嫌った関白・藤原忠通や鳥羽法皇らによって擁立された。
それに、鳥羽法皇は雅仁親王の資質には疑問を抱いており、その子で英邁の誉れ高かった守仁親王(後の二条天皇)を即位させる意向であった。
しかし、まだ年少であり、かつ実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がり、雅仁親王が即位した。
すなわち、後白河天皇の即位は、崇徳上皇系の皇族の皇位継承系の否定と共に二条天皇への中継ぎ的役割の意味を持っていた。
そのため一方では、鳥羽法皇側と崇徳上皇と左大臣・藤原頼長の間では緊迫の度が増して行った。

1156年、鳥羽法皇が崩御すると、保元の乱が発生。
後白河天皇側の武家、平清盛、源義朝らは、崇徳上皇が軍を動かす前に夜襲を起こた。
後白河と崇徳は同母兄弟であるが、不和であったという。しかし、軍を動かしたのは後白河ではなく後見をしていた、信西の可能性が高い。
崇徳上皇は讃岐へ流され、源為義は斬首となった。
乱後政権の強化に尽力する。
保元の新制を発して荘園整理を行う。
1158年、守仁親王に譲位するが政権はそのまま持ち、院政を開始する。

後白河上皇の院政の中には藤原信西と藤原信頼、平清盛と源義朝と互いに反目する大きな派閥対立があった。
1159年、その対立が頂点に達し、平治の乱が起きる。
結果は信頼方が負ける。信頼は殺され、信頼方に付いた源義朝とその一族は殺された。
この乱で藤原信西も死にこれ以降平氏の天下となる。
後白河上皇は清盛の武力を背景に天皇親政の勢力を排除しながら院政を続けていた。

1168年、六条天皇を廃位に追い込み、高倉天皇を即位させた。
1169年、出家し法皇となる。
この頃から勢力を伸張させた平氏と法皇の間でも軋轢が生じ始める。
1177年、平氏打倒の密謀である鹿ヶ谷の陰謀が起こり、清盛は法皇勢力を排除し始めた。
法皇自身も幽閉・隠退を余儀なくされた。
1179年、平重盛が死去すると、後白河法皇は重盛の所領を没収する。
これに対し清盛は法皇を鳥羽殿に幽閉し、院政を停止させる。

1178年、安徳天皇を擁立し平氏政権を成立させた。
1180年、皇子の以仁王が諸国に令旨を発し、京都で源頼政と平氏打倒の軍を上げた。
この挙兵は失敗に終わるが、以仁王の平氏討伐の令旨を受け取った各地の源氏が呼応し、木曾の義仲、伊豆へ流罪になっていた頼朝などが挙兵し、後白河法皇はこれを支援し始めた。

1181年、清盛が病死し、平氏勢力は急激に衰え始め、後白河法皇は院政を再開する。
1183年、木曾義仲が叡山と連携し、京都に攻め込むと平氏は安徳天皇、建礼門院らを伴ない、三種の神器を持ち出し西へと落ち延びていった。
叡山に避難していた後白河は京都へ戻ると、上洛した木曾義仲、源行家らを迎え平家追討の院宣を下した。
高倉院の宮から擁立する際、義仲は以仁王の子・北陸宮を推挙するが、後白河は寵姫・丹波局の影響でこれを退け、尊成親王(後の後鳥羽天皇)に決定した。
また、鎌倉に本拠を置いた頼朝が密奏を行い、東国の支配権を認めさせると義仲は京で孤立していく。

後白河は頼朝に義仲追討を命じ、頼朝は弟・源義経に命じてこれを討たせた。
更に平氏討伐の命令を出した。
1185年、壇ノ浦にて平氏は滅亡した。

今度は頼朝と後白河の間で軋轢が発生する。
義経に頼朝討伐の院宣を下すが、義経は敗れてしまう。
今度は頼朝の抗議と兵糧攻めを受けると、後白河は頼朝に対し義経追討の院宣を下すことになる。
1189年、義経は奥州の藤原氏に殺されると、頼朝より奥州藤原氏追討の院宣の願いが出されるが、これを拒否。

頼朝は奥州藤原氏を滅ぼすと、事後承諾の形で奥州藤原氏追討の院宣を下した。
頼朝は上洛し法皇と和解、しかし頼朝より願いだされた征夷大将軍への就任と九条兼実の関白就任には断固拒否を示した。
そのため、頼朝と兼実は法皇を死を待つことで一致する。
1192年、法皇が66歳で死去。
その後、頼朝は征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いた。

古代末期の激動期を院にあって巧みな政治力で乗り切り、皇室および朝廷側勢力の維持・存続を図った。
長講堂などの巨大荘園を背景に専制君主として政治に挑み、源頼朝より「日本国第一の大天狗」と評されたほどの策略家であり、木曾義仲、源頼朝、源義経などを手玉にとっていた。



皇后:大徳寺忻子    生没年:1134年~1209年
 正二位右大臣・大徳寺公能のむすめ。

女御:
源懿子     生没年:1116年~1143年
 贈皇太后。贈太政大臣正一位・藤原経実の娘。
 
三条子
 内大臣・三条公教の娘。

平滋子         生没年:1142年~1176年
 皇太后、建春門院。兵部権大輔・平時信の娘。

妃:
藤原成子(権大納言・藤原季成の娘)        生没年:?~1177年
高階栄子(丹後局)   生没年:1151年?~1216年
坊門局(兵衛尉・平信重の養女。)
三条局(法眼・応仁(従一位左大臣・源有仁)の娘。)
皇后宮坊門殿(正二位右大臣・大徳寺公能の娘。)
丹波局

子:
守仁親王        生没年:1143年~1165年
守覚法親王       生没年:1150年~1202年
以仁王         生没年:1151年~1180年  
円慧法親王       生没年:1152年~1183年
定恵法親王       生没年:1156年~1196年  八条宮、天王寺別当
権僧正 恒恵      生没年:1159年~1206年
憲仁親王        生没年:1161年~1181年
静恵法親王       生没年:1164年~1203年
道法法親王       生没年:1166年~1214年  
承仁法親王       生没年:1169年~1197年  梶井宮、天台座主
真禎  広隆寺別当、大僧都
亮子内親王(殷富門院) 生没年:1147年~1216年  斎宮  
好子内親王       生没年:1148年~1192年  斎宮
式子内親王       生没年:1149年~1201年  大炊御門斎院
覲子内親王(宣陽門院) 生没年:1181年~1252年
休子内親王       生没年:1158年~1172年  斎宮
惇子内親王       生没年:1157年~1172年  斎宮
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