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平の忠盛の子で清盛の兄弟について書いてみる。今回は二人だけ。後は後日。

平家盛
生没年:1128年~1149年
 池禅尼との子。
 1147年、従五位下・常陸介。
 1148年、従四位下・右馬頭に就任する。
 賀茂臨時祭では左兵衛佐として舞人を務めたこともある。
 異母兄・清盛の棟梁としての地位を脅かすほどの存在であったという。
 鳥羽法皇に供奉して熊野に赴く途中、病により夭折する。
 平治の乱の後、池禅尼が頼朝の中に見出したのがこの人である。それにより助命嘆願が行われたという。



平経盛
生没年:1125年~1185年
 源信雅の娘との子。修理大夫。
 安芸守、常陸介伊賀守などを歴任。正三位参議に昇る。
 笛の名手であったという。
 武将としても有能であったようで、平治の乱の際異母弟・頼盛、甥・重盛と共に内裏に立てこもる源氏軍の追討の大将軍に任じられていた。
 一ノ谷の合戦では経正、経俊、敦盛と一度に三人の息子を失った。
 壇ノ浦で異母弟・教盛と共に入水。
 又は一旦陸に上がって出家の後、再び戦場に戻って入水したとも言われる。

子:
平経正  生没年:?~1184年
 但馬守、皇太后宮亮。
 一門の中で秀才として知られ、歌人、また琵琶の名手として名を上げた。
 幼少より覚性法親王に仕え、藤原俊成といった文化人との交流が深かったという。
 平家都落ちの際、仁和寺に駆けつけ覚性法親王に別れを惜しみつつ、琵琶の名器「青山」を返上したという。
 一ノ谷の戦いにおいて、河越重房の手勢に討ち取られた。
 尚後世、彼の子孫を称する者に生嶋氏がいる。

平経俊  生没年:?~1184年
 一ノ谷の戦いにおいて、従兄弟・知盛の指揮の下、生田の森で源氏軍と対する。
 従兄弟の清房、清貞と共に三騎で敵陣に突っ込み、散々奮戦した末に戦死した。

平敦盛  生没年:1169年~1184年
 従五位下に叙され、無官大夫と呼ばれた。
 横笛の名手として知られている。
 討たれた時、鳥羽院より忠盛が賜わり、それが敦盛に伝った「小枝の笛」を所持していたという。
 一ノ谷の戦いで熊谷直実に討たれた。
 熊谷が自分の子と同じほどの若武者であったことに同情し、命を助けようとした。
 が、後方から味方の軍勢が迫り、泣く泣く敦盛の首を取ったという。
 そのためか熊谷直実は無常を感じこの後、出家している。(土地のことで悩み出家したとも言われている)

平経兼(刑部大輔)
平広盛(刑部大輔)
祐円
平経光(甲斐守)
平親盛(女院判官)


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