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2006.01.17 平忠盛
清盛の父親である、平忠盛について書いてみる。
忠盛は人柄もよくかなりの有能な人物であったという。

平忠盛

生没年:1096年~1153年

父:平正盛

妻:
祇園女御(の妹)
源信雅の娘
藤原家隆の娘
鳥羽院女房
(藤原為忠の娘)
池禅尼(藤原宗子、丹後守・藤原宗兼の娘)

子:
平清盛  生没年:1118年~1181年
平家盛  生没年:1128年~1149年
平経盛  生没年:1125年~1185年
平教盛  生没年:1126年~1185年
平頼盛  生没年:1131年~1186年
平忠度  生没年:1144年~1184年
千田親雅の室
源有房の室


養子:
平忠重(藤原隆重の子)


桓武平氏の一族で、伊勢守となり、伊勢・伊賀に勢力を持った維衡を祖とする伊勢平氏の嫡流に当たる。
父・正盛は白河上皇に仕えて勢力を伸ばした、その後を継ぎ忠盛も院勢力に接近し白河上皇、鳥羽上皇に仕えた。
1111年、検非違使となる。
1113年、日枝神社の盗賊・夏焼大夫を討ち取る。
夏焼大夫は宮廷の蔵に侵入して御物を奪うほどの大胆不敵な盗賊であったという。
忠盛は郎党を引き連れ、大夫の宿所を襲撃し、取り押さえたという。この功績により従五位下に叙される。
永久の強訴時には父・正盛と共に出動し宇治にて興福寺の大衆を防ぐ。

1117年、白河上皇が愛妾・祇園女御を訪れる際に奇怪なものが現れるという話を聞き、忠盛に護衛を命じた。
それは現れたが、忠盛が調べたところ編み笠を被り蓑を着た寺の者が灯篭に明かりを灯す姿が、灯篭の光に反射して奇怪なものに映っていたというものであった。
それを聞いた白河上皇は忠盛の思慮深さと勇猛さに感銘を受け、祇園女御を忠盛に与えた。
このときには祇園女御は妊娠していたとも、その間に生まれたのが清盛とも言われている。
また、それは白河上皇が与えたのは寵姫・祇園女御の妹とする説もある。
ともかくも白河上皇の信頼を増したのは確かであり、平氏興隆のきっかけともなったといわれている。

1119年、賀茂臨時祭に際して新舞人として仕えた。
左衛門尉に任じられる。
1120年、伯耆守となる。
1121年、院の昇殿を許される。

1123年、延暦寺の僧兵を鎮圧し、その功により越前守となる。
1127年、従四位下に叙され、備前守に任じられた。
1129年、院宣により山陽道・南海道の海賊を追討する。
白河上皇が崩御して、鳥羽上皇が院政をとると御給として忠盛は正四位下に叙された。
1132年、上皇勅願の観音堂である得長寿院造営の落慶供養に際して、千体観音を寄進する。
その功績により内昇殿を許可された。これは平氏としては初めてのことになる。
その功績を妬んだ公卿たちが忠盛昇殿の際、危害を加えようと謀ったものの、忠盛は銀箔の木刀によって公卿を脅すという機転により未遂に終わった。
このことは鳥羽院に賞され、鳥羽院の寵愛は深まったという。

1135年、中務大輔に任じられる。
再会の海賊を追悼について忠盛か源為義が敵等か公卿で議し、忠盛が追討使に任じられる。
忠盛は海賊を追捕して降伏してきた者を家人とする。
美作守に任じられる。
1140年、興福寺宗徒の強訴が出動して入京を阻止する。
1144年、正四位上に叙される。
1145年、播磨守に任じられる。
刑部卿に任じられる。

1153年、出家し、後に没した。
忠盛は諸国の受領を歴任したことに加えて、日宋貿易にも従事し莫大な富を蓄え、平氏政権の礎を築いた。

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