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2006.01.13 平清盛の子女
平清盛のその他の息子、娘の事について書いてみる。
しかしやはりこの中でも幸せな人生を送ったといえる人がいるのかどうかかなり微妙だな。

平 維俊
 六男。東宮少進であったといわれているのみで他は詳細不明。


平 知度 生没年:?~1183年
 七男。三河守。
 1180年、源頼朝追討の大将軍の一人として富士川・墨俣川の両合戦に従軍する。
 富士川の戦いでは惨敗に喫し、帰京したのはわずか20余騎であったという。
 更に、源義仲を討つ為に北陸へ下向するが、倶利伽羅峠の戦いにて討ち死にした。


平 清房 生没年:?~1184年
 八男。母は時子とも違うとも言われている。
 1179年、クーデターにより淡路守に任官する。
 1180年、円城寺攻撃に参加する。
 1181年、木曾義仲追討の北陸遠征に、副将軍の一人として出陣する。
 1183年、平家の都落ちに随行する。
 1184年、 一ノ谷の戦いにおいては、兄・知盛の指揮下に入り、生田の森の陣を警護する。
 しかし軍に陣を突破されると、覚悟を決め、従兄弟の経俊、義弟・清貞と共に敵陣へ突入し、共に討ち取られた。



娘(桜町成範室) 生没年:1152年~?
 長女。
 藤原成範の妻であったが、平治の乱で成範が配流された後、藤原兼雅の妻となったという。
 平家の都落ちには随行せず。
 紫宸殿の障子に絵を描くなど、絵画に通じていたという。


平 徳子 生没年:1155年~1213年
 次女。権礼門院、高倉天皇中宮。
 1171年、高倉天皇の元に女御として入内。
 1172年、中宮宣下。宮中での徳子の部屋は登花殿・藤壺であったという。
 1178年、言仁親王(後の安徳天皇)を生む。
 1181年、高倉天皇の退位後、院号の宣下により建礼門院と称する。
 1183年、源氏の進撃により平家一門と共に京を離れ、西国へ逃れる。
 1185年、壇ノ浦の戦いにおいて、安徳天皇らと入水するが、死ぬことができず源氏方へ捕らえられる。
 戦後、捕虜として京へ送られやがて出家し、直如覚と号する。
 その後、大原寂光院へ入り、そこで余生を送ったという。
 1213年、崩御。又は1191年、1223年と言う説もある。


平 盛子 生没年:1156~1179年
 三女。近衛基実室。従三位白河殿。
 高倉天皇准母。准三后。「せいし」とも読まれる。
 1164年、関白氏長者で当時左大臣の職にあった藤原基実と婚姻。
 この時には、盛子は9歳、また基実には藤原忠隆の娘を室としており、嫡子・基通もいた。
 そのため、これは清盛が摂関家との繋がりを深めようとするための政略結婚であることは明確であった。

 1166年、基実は死去し基実の弟である基房が摂政に就任する。
 清盛はこの機を逃さず、基実が所領していた財産のうち、「殿下渡領」のみを基房に相続。
 そして、基房がわずか7歳の幼少である理由から、基通の継母である盛子に後見という形で相続させた。
 盛子もこのときはまだ11歳、ということで平家による摂関家の横領であり、また摂関家領に関する全ての権限を握ることとなる。
 この計略には後白河法皇と藤原邦綱が関与していたとも言われる。
 1179年、盛子が死去すると今度は後白河法皇がこれを取り上げてしまう。
 このことは清盛の逆鱗に触れクーデターを引き起こすことになる。 


娘(冷泉隆房室)
 初め藤原信親(藤原信頼の子)の妻であったという。
 1169年頃、藤原隆房と結婚。
 1172年、藤原隆衡(長雅)を出産。
 平家の都落ちには随行せず。
 1199年、没。
 筝琴の名手であったという。


平 位子
 五女。寛子、完子とも。また衣通姫とも呼ばれた。
 准三后従三位、近衛基通室。
 平家の都落ちに随行、捕虜として京へ戻ってきたが、近衛基通とは別居したという。


娘(藤原信隆室)
 1168年、子・隆清を出産。
 平家の都落ちには随行しなかった。
 連歌、絵画の名手であったという。


御子姫
 母は、厳島内侍。後白河院女房。
 1181年、出仕。
 本来は高倉帝への入内が決まっていたようだが、徳子の嘆願により断念される。そのため、後白河帝に更衣に入内したとも猶子したとも言われる。


三条殿 生没年:1161年~?
 八女。母は常盤御前。義経の異父妹にあたる。
 左大臣・花山院兼雅家廊御方。
 平治の乱後、母・常盤が清盛の妾となり生まれる。
 左大臣・藤原兼雅の妻(清盛の長女)と仲がよかったためか、上臈女房となる。
 後に兼雅の妾となり、一女を生む。
 和琴と書の名手であったという。
 平家一門の都落ちから壇ノ浦に至るまで行動を共にした。
 建礼門院等と共に源氏の捕虜となる。


娘(坊門大納言藤原有房室)
娘(花山院兼雅室)

 この二人に関しては詳細不明。
 しかし清盛による関白家へ繋がる為の縁組には違いないだろう。

養子:
平 清貞 生没年:?~1184年
 実父は大外記を務めた中原帥基であり、兄に師尚がいる。
 名を一説には清定とも。
 早くから清盛に養われ、平家の公達として成長する。
 一門の繁栄の中、尾張守に任官する。
 一ノ谷の戦いにおいて、義兄・知盛の指揮下に入り、生田の森の陣を警護する。
 しかし源範頼軍に陣を突破されると、従兄弟の経俊、義兄の清房と共に三騎で敵陣を突破し、討ち取られた。
 子・師行は後に師尚の養子となり、中原氏を復姓している。


平 清邦 生没年:1175年~?
 清国とも。実父は五条大納言・藤原邦綱、母は右大臣・藤原公能の娘。
 父・邦綱が長年に渡り清盛との親交が深かった為にその養子となる。
 1179年、丹波守に任じられる。
 1180年、高倉上皇の厳島御幸の観賞により正五位下に叙された。 以後の消息は不明。
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