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2006.01.09 平重衡
清盛の五男のことについて書いてみる。兄・知盛と並んで勇猛で知られる人物である。

平重衡

生没年:1156年~1185年

父:平清盛
母:平時子

正室:藤原輔子
 大納言・藤原邦綱の娘。重盛に嫁ぎ、後に言仁親王(後の安徳天皇)の乳母となる。
 そのため大納言典侍とも言われた。
 1183年、平家一門の都落ちに同行する。
 1185年、壇ノ浦の戦いで建礼門院徳子と共に捕縛され京都へ送られる。
 落飾し、京都・大原寂光院に住んだと言う

女:玉緒?(平親範の娘)

千手
 重衡が鎌倉にとらわれている間世話をしていた女性。
 重衡の死後、落飾し重衡の菩提を弔ったという。


平清盛の五男。
同母兄弟には宗盛、知盛、徳子がいる。

1180年、平家追討の兵を起こした以仁王と源頼政を相手にした宇治川の戦いで兄・知盛、叔父・忠度と共に参戦する。
これを破り、以仁王、頼政を死に追いやった。
父・清盛の命により、反平家の拠点と化していた南都東大寺、興福寺を焼き討ちする。
その際に重盛が放った火が延焼し、東大寺大仏が焼け落ちたため、激しい世論の非難を浴びたという。

1181年、尾張墨俣で源行家の軍を破り、その功により従三位に叙せられた。

1183年、平家落ちの後も備中水島の合戦で足利義清、海野幸広を破る。
また室山の合戦においても再び行家を撃破するなど、衰亡する平家方勢力の中心武将として活躍していた。

1184年、一ノ谷の合戦で源範頼、義経の軍に惨敗する。
馬をいられ落馬した重衡は自害しようとしたところ梶原景時にを取り押さえられ、捕虜となる。
一時は京都の土肥実平に預けられるが、やがて平家が壇ノ浦で敗れた後鎌倉へと護送された。
鎌倉へ送られた後は源頼朝により厚遇を受けるが、大仏焼き討ちを深く恨む南都勢力による再三の引き渡し要求に屈する。
重衡自身大仏の焼き討ちに対しては深く遺恨がありそれに殉じたふしがある。
1185年、南都に送られ、程なく木津河畔にて処刑された。
首は奈良坂にさらされたという。





昨日、NHK大河ドラマ「功名が辻」を見たが、相変わらず突っ込みどころ満載という状態かな。
義経のときもあまりのことに途中はほとんど見てなかったよ。
見ていたとしてもかなり適当に見ていたような。
与一の弓がかなりむかついたからな。

今回はどこまで見れるか。
山内自体そこまで好きではないからな、すぐに飽きるかな。
ちょっと質問、あの当時の女子供に漢字が書けて読めたのかということ。いくらなんでもそれはなかったような。
父親が野武士ということで教えていたというのかな。そこまで学があるようには見えなかったが・・・。

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