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2006.01.07 平 知盛
平清盛の四男、平知盛のことでも書いてみる。智謀に優れていた人物として有名。

平 知盛

生没年:1152年~1185年

父:平清盛
母:平時子

妻:
平明子(治部卿局)
宗判官惟宗信房の娘


同腹兄弟に平宗盛、平重衡、平徳子がいる。
父・清盛の引き立てもあってわずか8歳で従五位下となり、その後も栄進していく。
知盛は勇猛果敢で武将としては有能であり、父・清盛から厚い信任を受けており、重盛に次に寵愛されていた息子だったといわれている。

1180年、以仁王と源頼政が反乱を起こしたときには、父の命令を受けており総大将となり、表動因に立てこもった両名を討ち果たした。
その後、美濃と近江で源氏が反乱を起こした時にも総大将として鎮圧にあたり、これを見事に平定した。
知盛はその後、清盛の命令で東国追討も命じられたが、この時に病に倒れて京都に戻ることを余儀なくされた。

1181年、父が死去する。清盛の後は兄の宗盛が継いだ。
しかし清盛は暗愚な宗盛より知盛の後継を一時は考えていたらしい。
しかし知盛は蒲柳の性質であったため、清盛は遂に後継者に選ばれなかったといわれている。
とはいえ、清盛の死後は暗愚の兄・宗盛に代わって平氏一門の中心的な人物としてその発言力も大きかったため、事実上彼が平氏の棟梁のようなものであったという。

1183年、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅すると、知盛は宗盛と共に都落ちを決める。
そして大宰府にて軍を再建し、源義仲が派遣した足利義清らの軍勢も備中水島の戦いにて撃破し、一時は勢力を福原にまで回復することが出来たのは、この知盛の軍事能力によるところが大きかった。

1184年、一ノ谷の戦いでは、生田口を源氏方の総大将・範頼相手に押さえていたが、一ノ谷、鵯越口とを義経軍により壊滅を受け平氏方は総崩れとなってしまう。
この時、子・平知章をはじめとする多くの有力武将を失った平氏軍の衰退は、もはや知盛一人では再建できるものではなかった。
一ノ谷敗戦後も平家が屋島と彦島を押さえ根拠地としたとき、知盛の軍勢は彦島を固め、周防長門に下った範頼の軍を苦しめた。
そのため、源義経の前に屋島の戦いでは平氏が敗れる要因となったという。

1185年、壇ノ浦の合戦で平氏滅亡の様を見届けた知盛は、海へ身を投げ自害した。
このとき、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし入水したといわれている。
また、「見るべきほどの事は見つ、今は自害せん」という言葉が有名。




子:
平知章 生没年:1169年?~1184年
 母は、八条院の女房・治部卿局。
 従五位上、左馬頭兼武蔵守。
 一ノ谷の合戦では父・知盛に従い生田の森で源氏軍を迎え撃った。
 全軍総崩れの中、知盛と知章、そしてその家人・監物太郎頼方と主従三騎で落ちていくところを源氏方の児玉党に追いつかれてしまう。
 児玉党の大将が知盛に組み付こうとするのを身を持って防ぎ、大将は討ち取るものの駆けつけた童武者に首を取られた。
 その時知盛は息子を置き去りにして逃げたことを恥じ、「人々の思われん心のうちどもこそはづかしう候へ」と泣いたという。

平増盛(中納言律師)

平知忠 生没年:1181年~1196年
 母は、治部卿局で知章とは同母兄弟にあたる。
 三歳で従五位下に叙せられ、伊賀国で育ったため伊賀大夫と呼ばれる。
 1183年、平家の都落ちの際、知忠は幼少のため知盛の乳母夫・紀伊次郎兵衛こと橘為範に預けられた。
 1185年、壇ノ浦の戦いで父・知盛は自害、母は一命を助けられ京都に戻っていた。

 1196年、為範は成長した知忠を伴って、京都法性寺の一橋のあたりに忍び反抗の隙を伺っていた。
 有力な説では、源頼朝の妹婿である一条能保の暗殺計画を企てた、平家の再興を図ったとも言われている。
 しかし、密告により検非違使の追捕を受け、そこで自害して果てたという。
 知忠の首実験には実の母である治部卿局があたったとされる。

平知宗 生没年:1184年~1255年(1184年)
 母は宗判官惟宗信房の娘。
 1185年、平家滅亡後、長門国斎藤兵庫から筑前鎮西守護、藤原(武藤)資朝・惟宗氏により庇護を受ける。
 そのまま藤原資頼の養子となる。藤原資頼は少弐氏の祖に当たる。
 1200年、太宰大監となる。
 1255年(1184年)、太宰府北殿にて没。

(藤原範茂室)
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