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2006.01.04 平宗盛
久々に歴史人物。平清盛の三男。棟梁としては物足りない人物だった人。

平宗盛

生没年:1147年~1185年

父:平清盛
母:平時子

室:中納言・平教盛の娘
平盛子(兵部権大輔・平時信の娘)


1181年、清盛の嫡男である兄・重盛についで清盛が逝去したため宗盛は平家一門の棟梁となる。
しかし、宗盛は清盛、重盛とは異なり、際立った政治的手腕は無く、善良な凡人であったとされる。
清盛の死去は平家一門を浮き足立たせることになった。

平家物語では善良な人物ではなく、愚鈍なうえ傲慢な性格で思い上がった振る舞いが多く、そのために他の氏族の反感を買う行為ばかりしていたという。
源頼朝は治承・寿永の乱の最中似、弟の源範頼に当てた書状で、「内府は極めて臆病におはせる人なれば、自害などはよもせられじ」と記していた。
見方を変えれば、心優しき人物であり、平穏な時代であればそれなりの人であっただろうといわれている。

1182年、権大納言・内大臣に昇進する。
1183年、源義仲が越中において、平家の軍勢を打ち破ると、安徳天皇と共に今日を捨てて西走することになる。

摂津国の一ノ谷の戦いで頼朝の弟・源義経率いる源氏軍の敗れ、讃岐屋島に拠る。
後白河法皇から人質である弟の平重衡の助命に代わり、三種の神器を要求されるが、これを断ったという。
この後の屋島の戦いでも義経に敗れる。
1185年、壇ノ浦の戦いにおいて、源義経率いる軍勢に大敗した。
棟梁である宗盛は入水したが、息子の平清宗と共に助け出される。
この時の宗盛は逃げ回ってばかりでそれを見た諸将はあまりのみっともなさに嫌気が差し、ついには宗盛を捕まえて無理矢理海に突き落とした。
しかし、泳ぎの達人であった宗盛は源氏の兵に助け出されてしまったという。

鎌倉に送られる。
頼朝と面会した宗盛は命惜しさのために頼朝に対し媚びへつらい、源氏の諸将に失笑を買ったという。
またそれを見た頼朝は宗盛の名を平末国と改名させたと言う。
鎌倉で頼朝と面会した後、京への送還途中の近江国篠原宿で義経の部下・橘公長により斬首された。
享年39歳。




子:
平清宗 生没年:1168年~1184年
 宗盛の長子。母は平時信の娘。妻は叔父・頼盛の娘。
 平家の威光のためか、後白河法皇の寵愛ののせいか、3歳で元服し、従五位下となる。
 1182年、13歳のときに正三位に昇進するが、源義仲の侵攻で安徳天皇と共に都落ちする。
 源氏との戦いに従軍するが、平家は各地で敗れる。
 1185年、壇ノ浦で源義経率いる源氏勢に敗北する。
 清宗も父と共に入水を試みるが、捕縛され捕虜となってしまう。
 清宗らは義経に護送され京都から鎌倉へと送られるが、義経の鎌倉入りを禁じられたため途中で留め置かれることになる。
 再び京へと返されるが、途中の近江篠原宿にて義経の部下・堀景光より斬首された。享年16歳。


平能宗 生没年:1178年(1180年)?~1185年
 宗盛の次男。
 幼名は副将丸と言う。この名前は将来朝敵を討伐する際に、清宗を大将軍に、能宗を副将軍にという思いから名づけられたという
 母を早くに亡くしていた為か、父・宗盛の寵愛を受けて育ち、幼くして従五位上に昇る。
 1183年、一門の都落ちには乳母の冷泉局、女房の少納言局に付き添われていたという。
 壇ノ浦の戦いで一門が滅亡すると、父・兄と共に捕らえられて川越重房の元に預けられる。
 父と対面した翌日、京都六畳河原にて斬られた。

(平通盛室)

養子:
平宗親
 花園左大臣源有仁流の子。安房守。
 一の谷の戦いの後、平維盛と高野山で出家。


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