上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2005.12.17 平重盛
清盛の嫡子であった平重盛のことを書いてみる。
平家の中では唯一まともな人間にかかれることが多い人でもある。

平重盛

生没年:1138年~1179年

父:平清盛
母:高階基章の娘

室:藤原経子
 中納言・藤原家成の娘

女:少輔掌侍
 下野守・藤原親方の娘


平清盛の嫡男。
しかし、宗盛や徳子とは母が異なる上、後に藤原成親の妹を妻にしたことなどから一門の中では孤立していたという。

保元・平治の乱では父に従い活躍する。
平治の乱では源義親の長子・義平と対峙したという。
左近衛大将、内大臣まで出世。

六波羅小松台に住んでいたことから小松内大臣とも、その邸宅に48の燈篭を立てていたことから燈篭大臣とも呼ばれていた。

武勇に優れていた上、冷静沈着な人格者だったとされる。
唯一は、藤原基房との大乱闘ぐらいか。
1170年、摂政・藤原基房が子・平資盛が下馬の礼を取らなかったため乱闘となる。
しかし、その後摂政・基房も武士に襲われたという。
これは「平家物語」の中では清盛がやったこととなっているが、実際には重盛が襲わせたことらしい。
この時、基房は仕返しも出来ず、反対に重盛に謝ったともされて平家がどれだけの力を持っていたのかがよく分かるようだ。
後に、重盛は権大納言の職を返上している。
これはそのことを悔やんだためともされるが、すぐにまたもとの職に戻っている。


1177年、鹿ケ谷事件の際には清盛の後白河法皇を身を持って制止するなど、清盛を諌めることが出来る数少ない人物。
藤原成親・成経親子、西光は西八条亭に禁固され、西光は即日斬首。
藤原成親も死罪になるところを、成親の妹を妻にしていた重盛の必死の説得により備前の児島への流罪に減刑された。
後白河法皇に対しても鳥羽の離宮へと軟禁しようとしていた清盛を重盛の説得によりお咎めなしとなった。
この時重盛は「忠ならんと欲すれば考ならず、考ならんと欲すれば忠ならず」と呟いたという。

一門の若き棟梁として期待されていた。
1179年、熊野参詣した際、病に倒れる。
内大臣を辞任し、出家する。法名は浄蓮。
しかし、介護の甲斐なく清盛より先の病死する。享年41。




子:
平維盛 生没年:1158年~1184年
 嫡子。惟盛とも書く。通称は桜梅少将、小松中将とも。
 1176年、後白河法皇の50歳の祝賀の席にて「青海波」を舞い、その美しさから、桜梅少将と呼ばれた。
 1180年、源頼朝の挙兵に際し追討大将軍となるが、富士川の戦いで水鳥の羽音に驚き敵軍の来襲したと誤り敗走し、祖父・清盛の怒りを買ってしまう。
 しかし、これは源氏方の武田軍の夜襲を察知して一時撤退を図ろうとしたが、不意の命令で混乱し壊走したとも言われている。
 1181年、尾張国墨俣にて平重衡、忠度と共に源行家を破り、従二位右中将、蔵人頭となる。
 1183年、倶利伽羅峠の戦いで源義仲に敗れる。
 平家の都落ちにて西走。
 1184年、屋島の戦いで源氏と対陣中にひそかに逃亡し、高野山に入ってしまう。
 後に、那智沖の山成島にて入水自殺したといわれている。

平資盛 生没年:1160年~1185年
 次男。母は藤原親盛の娘。
 歌人・健礼門院右京大夫の恋人とも言われる。
 資盛は戦は得意ではなく、和歌や風流を好む人物であったという。 
 1170年、摂政・藤原基房を諍いを起こし、重盛、清盛の手によって徹底的な報復をされたという。
 1185年、壇ノ浦の戦いで弟・有盛や従兄弟・行盛らと共に入水したという。
 生まれや育ちは公家だが、死ぬときには武家らしくともうたったらしい。

平清経 生没年:?~1183年
 三男。母は、藤原成親の妹。
 1180年、以仁王の挙兵に際し円城寺攻撃に参加している。
 平家一門の都落ち後、次第に悲観的な考えに取り付かれ始める。
 太宰府を元家人の緒方惟義に追い落とされ、豊前国柳浦にて入水自殺した。

平有盛 生没年:?~1185年
 四男。母は、藤原成親の妹。左近衛少将にまでなる。
 一ノ谷の合戦において兄・資盛、弟・師盛と共に三草山の前線基地に配されたが、義経軍の襲撃を受け屋島へと逃れる。
 源範頼軍に破れた藤戸の合戦においても、弟・忠房と共に大将軍でもある資盛に従っている。
 壇ノ浦の戦いで資盛、行盛らと共に入水。

平帥盛 生没年:1171年?~1184年
 五男。母は、藤原成親の妹。若狭守、備中守。
 播磨国三草山にて、兄・資盛、有盛、弟・忠房と共に源義経軍を迎撃するも夜襲を受け破れる。
 他三人が西国に向かって落ち延びたのに対し、一人南方の一ノ谷の平氏本陣に合流した。
 続く、一ノ谷の合戦で、安田義定の手勢と大輪田泊で対戦するが、弱冠14歳にて戦死したといわれている。
 また、一説では沖合いに逃れようとした際に乗っていた船が転覆し、畠山重忠の郎党に討たれたとも言う。

平忠房
 六男。母は、藤原成親の妹。丹波守に任官し「丹後侍従」と呼ばれた。
 屋島の合戦の後、ひそかに陣を抜け紀伊国に潜伏する。
 平氏一門が滅亡した後、源頼朝の追討を受けるも、平景清らと共に徹底抗戦して気を吐いた。
 が「重盛には恩があり、その息子は助命する」という頼朝の偽りの誘いに乗り、鎌倉に出頭する。
 京に返還される途上、頼朝の命を受けた後藤基清によって斬られたと言う。

平宗実
 藤原経宗の猶子となる。
 侍従、土佐守。後、常陸介。
 1183年、都落ちせず、重源を頼り出家する。

※以下詳細不明
平重真
平行実
平重編
平清雲

スポンサーサイト

Secret

TrackBackURL
→http://bxneko.blog12.fc2.com/tb.php/223-8789160c
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。