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2005.12.14 平清盛
源氏方が戻りすぎたので平家方に来てみよう。
ということで、平清盛について書いてみる。

平清盛

生没年:1118年~1181年

父:平忠盛
母:祇園女御(又はその妹)

室:平時子(兵部権大輔・平時信の娘)

女:
(右近将監・高階基章の娘)
常盤御前(梅津源左衛門の娘)
祇王(江戸時久の娘)
仏御前(白河兵大夫の娘)

子:
平重盛 生没年:1138年~1179年
平基盛 生没年:1139年~1162年
平宗盛 生没年:1147年~1185年
平知盛 生没年:1152年~1185年
平重衝 生没年:1156年~1185年
平維俊(東宮少進)
平知度
平清房

(桜町成範室)
(花山院兼雅室)
平徳子 生没年:1155年~1213年
 権礼門院、高倉天皇中宮
平盛子(近衛基実室) 生没年:?~1179年
(冷泉隆房室)
平位子
 准三后従三位、近衛基通室
(藤原信隆室)
(後白河院女房)
三条殿 生没年:1161年~?
 左大臣・花山院兼雅家廊御方


養子:
平清貞(中原帥基の子)
平清邦


1118年、伊勢平氏の棟梁である平忠盛の嫡子として伊勢産品で生まれる。
生母は祇園女御、もしくはその妹と言う諸説があるが定かではない。
また祇園女御は白河法皇から下賜されたものでありそのときには身ごもっていたとされ、清盛は白河法皇の落胤であるという説もある。

1129年、従五位下左兵衛佐に叙任される。
1146年、父・忠盛は海賊討伐の功績で刑部卿へ昇進、それを譲り受け従四位下中務小輔兼安芸守となる。
瀬戸内海の制海権を手にしたことで莫大な利益を上げ、父と共に西国への勢力を拡大した。
また、その頃から宮島・厳島神社を信仰するようになったという。
1153年、忠盛の死により京都の伊勢平氏一門の棟梁となった。

1156年、保元の乱では、源義朝らと組んで後白河天皇方に加担し勝利した。
この功績で後白河法皇の信頼を得て、播磨守、大宰大弐となる。
その頃から清盛は藤原信西と手を結んで権力の強大化を図った。
1159年、これに不満を抱いた、藤原信頼と源義朝によって反乱が起こった。
いわゆる平治の乱で清盛は源義朝を誅殺、更にその子・源義平をはじめとする多くの源氏一族を処刑。
その一方で義母・池禅尼に助命嘆願された義朝の三男・頼朝を伊豆に流罪、常盤御前の助命嘆願により常盤と義朝の子らを寺に預けると処した。
これにより、清盛は武家政権の樹立のための礎を築いた。

この後は暫くは白河法皇とも円満な関係が続いていた。
その間、妻・時子の姉妹である平滋子(後の建春門院)を上皇と娶わせ、その間に生まれた憲仁親王(後の高倉天皇)を皇太子とした。
更に官位も1160年の正三位参議から検非違使別当、兵部卿を兼任して権大納言、正二位東宮大夫から内大臣と昇進を続けた。
1167年、武士としてはじめてというより右大臣・左大臣を経ずして異例の従一位太政大臣に昇りつめた。
1168年、やがて重病に倒れ、一時は生死の境を彷徨い、それをきっかけに三ヶ月で太政大臣を辞め、隠棲し入道となった。
以後は相国入道と呼ばれた。
しかし、実権は手放さず、絶大な権力はそのままであった。
その後も、平氏一門は隆盛を極め、一族で主要官位を独占し、全国に500あまりの荘園を保有、また日宋貿易を推進して莫大な財貨を手にしていた。
全国の半分近くを手にしていた一族の平時忠をして「平氏にあらざれば人にあらず」とまで言わしめた。
清盛の権勢はとどまることを知らず高倉天皇に自らの娘・徳子を娶わせ、天皇の外戚となることになった。
更に娘・盛子を摂関家の藤原基実に嫁がせたのをはじめ、多くの子女を有力公家衆と娶わせ、婚姻政策を巧みにし権力の拡大を図った。
しかし清盛の勢力が拡張していくにつれ、後白河法皇をはじめとする院政勢力は不快感を示し、清盛と対立を深めていくことになった。

1177年、鹿ケ谷の陰謀事件が起こる。
これは多田行綱の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図り始める。
藤原師光(西光)を処刑し、藤原成親は備中へ流罪、俊寛等は鬼界ヶ島に流罪に処した。
ただし、後白河法皇も加担していたようだが罪は問わなかった。

1179年、この頃から清盛や平家一門に陰りが見え始める。
娘の盛子が死ぬと、法皇は直ちに盛子の荘園を没収してしまう。
更に嫡男・重盛が若くして病死してしまった。これにはさすがに清盛も落胆を隠せなかった。
しかし、法皇は重盛の死去と同時にまたも清盛に相談もなく重盛の知行国であった越前国を没収してしまう。
清盛はこのことに激怒し、福原から軍を率いて自ら上洛し、クーデターを決行した。いわゆる知承のクーデターである。
このクーデターで院の近臣であった藤原の基房をはじめとする反平家的な公家およそ39名の任官をすべて解任し、変わって親平家的な公家を任官するにいたった。
これに対し法皇は恐れを覚え清盛に許しを請うが、これを許さず、法皇を鳥羽院に幽閉するにいたった。
ここに後白河法皇の院政は完全に停止し、清盛の独裁化が成立したのである。
1180年、清盛は高倉天皇を退位させ、自らの孫に当たる安徳天皇を即位させた。
このときが平家にとって全盛期であったという。

しかし平氏の専横には皇族・公家はもちろん、武士勢力も自分たちの利害から離れて貴族化した平氏に不満を抱くようになっていた。
1180年、後白河法皇の第2皇子・以仁王を奉じた源頼政の反乱が起こる。
これに清盛は手早い対策によって四男・平知盛を総大将とした軍勢を派遣し以仁王と源頼政を敗死に追い込んだ。
更に、清盛は以仁王の反乱に協力したとして園城寺に五男・重衡を派遣し滅ぼすにいたった。
しかし、寺社勢力特に園城寺と同じ天台系の比叡山延暦寺の動向を危険視した。
また、法皇派の公家衆の不穏な動きもあったため、平家の体制を万全なものとするため、平家の拠点であった福原に遷都を強行した。

しかし、以仁王の令旨が全国各地に飛び火しており、伊豆に流罪になっていた源頼朝が北条氏と手を結んで挙兵する。
また、信濃においても源義仲が挙兵する。
これに対して清盛は頼朝の勢力拡大を防ぐため、嫡孫・平維盛を総大将にした大軍を関東に派遣する。
しかし、富士川の戦いにおいて、水鳥の羽音に驚いて撤退するという醜態をさらし、平家軍の弱体化を露呈してしまった。
この敗戦を契機に、寺社勢力、特に興福寺が不穏な動きを見せ、更に公家衆等のの遷都に対する反感を大きかったため、京都へと戻った。
その後、重衡を総大将とした大軍を南都に派遣し、南都を焼き討ちにした。
更に知盛を総大将とした軍勢を近江国、美濃国に派遣し源氏勢力を鎮圧させた。
これにより反平家勢力の動きは鎮静化したが、南都の焼き討ちにより清盛は寺社勢力を敵に回した事になった。

1181年、平家勢力の基盤であった西国においても伊予国の河野通清・通信親子、豊後国の緒方惟能、臼杵惟隆、佐賀惟憲ら豪族が挙兵する。
更に、東国においても平家勢力であった佐竹氏が頼朝によって討伐され、反乱は深刻化してくる。
このような中でも、清盛は京都を中心に新たな平家体制を築こうと惣官・総下司という官制を成立させようとする。
更に、源義仲に対しては越後国の城資永・助職を当てて鎮圧させようとした。
ところが、その前に熱病で倒れ、そのまま九条河原口の平盛国の屋敷にて死去する。享年64歳であった。

清盛の死後、平家の転落は収まらず、清盛の死から5年も経たず、平家は滅亡してしまう。
親族はたくさんいたはずなのに、ここの能力は高くともそれをまとめる人がおらずにいた為か。
それとも清盛の影響が多すぎて自分たちが何をすればいいのかがわからなくなった為か。
ともかく平家の盛隆はすべて清盛一代限りのことになっている。
平家物語の中では悪逆非道をつくした人物ではあるが、日本初の武家政権を築き上げ、朝廷や寺社と渡り合い、また反鎖国状態であったあの当時に日宋貿易に着目した、清盛はかなりの政治家であったといえる。

この人は恐妻家であったのか、常盤との関係が時子に届くと常盤を大蔵卿へ嫁がせたりしている。
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