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2005.12.12 源義家の子等
悪評名高い義家の子たちについて書いてみる。

源義宗
 長男。若くして死去しているが死亡原因は不明。
 兵庫充、左衛門少尉の官職についていた。
 後三年の役に活躍していた。
 弟・義忠の子・忠宗が義宗の養子となっている。



源義親 生没年:?~1108年
 次男。為義の父。兄の義宗が早世したため、義親が嫡男となる。
 義家譲りのつわものらしく、悪対馬守義親と呼ばれた。(「悪」というのは強いという意味)
 対馬守となり九州へ赴くが、対馬の人民を殺害、公物を横領するなど朝廷に対し反抗的姿勢が目立つ。
 1101年、朝廷で追討が議され、父・義家の重臣が義親追討に向かうが、現地に着くや義親に同意しその指揮下に入ってしまう。
 1102年、官吏を殺害した為、隠岐島へ配流。

 1107年、隠岐島より脱出し出雲国に渡り官吏を殺害する。
 また、官物を奪取するなど反抗的姿勢を続けたため、朝廷から派遣された追討使・平正盛(平清盛の祖父)に討たれる。
 しかし、義親が討たれたという事は当時からも疑問視されておりその後も、義親を名乗る人物が幾度となく登場したという。

 義親の偽者が現れていたということは単なる乱暴ものではなかった可能性もある。
 むしろ、源氏の平将門的人物でなかったのではないかということも言われる。
 義親の行動の裏には白河法皇の陰謀があり、義家や源氏の力を弱めるために利用されたともいえるかもしれない。



源義国 生没年:1082年~1155年
 三男だが異説がある。母は、藤原有綱の娘。幼名は普賢丸といった。式部丞、加賀介に任命されていたため、足利式部太夫、荒加賀入道と呼ばれた。
 長男は早世、次男が西部で反乱を起こしたため、弟・義忠と共に次期「源氏の棟梁」としての期待を受けた。
 しかし、乱暴狼藉を行ったことや時代の趨勢にあわないと義家の判断され後継者からは外された。
 1106年、特に叔父・源義光と関東の常陸で合戦に及び朝廷から勘気を被り捕縛命令がだされている。
 好意的にみるならば父の遺産(源氏の棟梁)を取られそうになったため、叔父と戦ったとも考えられるが、どの道ただのお家騒動には変わりない。
 弟・義忠が暗殺されるとその子らは平氏によって教育されるが、義忠の長男・源経国の烏帽子親となり、足利へ連れ帰り、領地を与えて厚遇している。
 この人もただの乱暴ものではなかったようにおもわれる。
 足利・新田の祖に当たる人でもある。 



源義忠 生没年:1083年~1109年
 四男だが、一説には三男、五男とも言われている。母は藤原有綱の娘であり、義国とは同母兄弟である。
 義家の死後、河内源氏の家督を相続している。
 伊勢平氏と和合し、勢力保寺を目指した冷徹な政治家。
 しかし、義家死後、源氏を守りきれず、後世の評価は低い。
 若年より、河内の守、検非違使などを歴任しており、早くより後継者と目されていたようである。
 その一方で、朝廷が源氏の内部抗争を目論見、兄を差し置き弟に高位要職を与えたという説もある。
 義親の反乱も弟の方が中央に近く、河内守になったことが不満の原因であったとも云う。

 1106年、義家が死去し、河内源氏の勢力は縮小し始める。
 また、義親の反乱が伊勢平氏の平正盛が討つと河内源氏より伊勢平氏が優位になり始める。
 それに白河上皇の院政により、摂関家側の源氏の勢力は減少し平家の勢力が台頭し始める。
 そのため、義忠は平正盛の娘を妻にし、平家と和合を図った。
 しかし、このやり方には源氏内部に多くの反発を招き、また院政に接近し勢力を拡大を可能にした義忠のを快く思わないものもまた存在した。

 1109年、源義忠が暗殺される。
 この事件は当初、叔父・源義綱の子・義明とその家人・藤原季賢の犯行をされ、義忠の養子・為義によって義綱一族の甲賀山は攻められる。
 義綱の子らは自決し、義綱も捕らえられ佐渡へと流された。
 しかし、後になってもう一人の叔父・源義光の犯行であることがわかった。
 義光は義忠の権勢が高まるのに不満を感じ、自ら河内源氏の棟梁になることを望み、家人・平成幹(鹿島三郎とも)に義忠を襲わせた。
 義忠は平成幹との斬り合いで重傷を負い、その傷がもとで死去した。
 平成幹は義光の弟の比叡山僧侶・快誉の元へ逃げ保護を求めたが、兄・義光に頼まれた快誉は平成幹を殺害する。
 河内源氏は、義家亡き後、義忠、義綱という実力者を失い、陰謀を好む義光だけが残ったが、人望がなく棟梁にはなれなかった。
 よって義忠が養子にしていた、義親の末子・源為義が棟梁となる。



源義時
 父・義家が死去し、すぐ上の兄・義忠が家督を相続した後、義忠が都に戻るのと入れ替わりに河内源氏の本拠地・河内国石川を守るようになる。
 義忠の死後、義時も兄の後を継ぎ、源氏の棟梁となることを望んだが果たされることはなかった。
 また、陸奥六郎と名乗っていたそうだが、陸奥守ではなく父の陸奥守に由来したものであるという。
 石川源氏の祖であるが、平家に討たれ衰退し今ではほとんど影を見ない。



源義隆
 七男(六男とも)。
 森冠者、陸奥冠者、陸奥六郎又は陸奥七郎と号したという。
 義家の子の中では一番長命であり、一族の長老として尊崇を集めた。
 1159年、平治の乱の折、源義朝に従い参戦する。
 平家に破れた後は関東へ落ち延びるが、その際比叡山の龍華越で落ち武者狩りの横川の悪僧の一群と遭遇する。
 義隆は義朝の次男・朝長と共に義朝の盾となり悪僧の放った矢に当たって落命したという。
 義朝は義隆の首が敵の手に落ちないように自ら堅田の湖に重石をつけて沈めたという。
 子には、毛利義広、久下直光、若槻頼隆、高松定隆らがいる。
 この人の子孫には、織田信長の小姓であった森蘭丸がいる。
 


増珍
 仔細不明。


養子:
源為義 生没年:1096年~1156年
 源義親の子。源義朝の父。
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