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2005.12.10 源義家
為義の祖父に当たる源義家のことについて書いてみる。

源義家

生没年:1039年~1106年

父:源頼義
母:平直方の娘

正室:中宮亮・藤原有綱の娘

子:
源義宗
源義親 生没年:?~1108年
源義国 生没年:1082年~1155年
源義忠 生没年:?~1109年
源義時
源義隆
増珍


養子:
源為義 生没年:1096年~1156年


1039年、河内国石川郡壷井に生まれ、幼名は不動丸又は源太と称した。
2歳で院に謁見した。その時に纏っていた鎧は「源太の産衣」と名づけられる。
元服を京都郊外の岩清水八幡宮で行ったことから八幡太郎と呼ばれる。

1051年、前九年の戦いで鎮守府将軍、陸奥守に任じられた父・頼義が安倍氏と戦う。
頼義が安倍氏に対し挑発を行い安倍氏の蜂起を促すことで大義名分を片手に安倍氏の衰退を狙った。
はじめは戦いを優位に進めていた。
1057年、黄海の戦いで数百の死者を出し大敗した。
僅か六騎残った官軍の退却を助け、義家のいる矢は神の如しと称えられたという。
この後も苦戦を強いられたため出羽国俘囚の豪族・清原氏を巻き込み戦況を覆した。
1062年、源頼義・頼家が安倍貞任を破り、前九年の役は終わる。
1063年、その勲功を称され従五位下出羽守を叙任される。

1083年、鎮守府将軍となる。
清原氏の内紛である後三年の役が起こる。
これも平定するが、朝廷はこの乱を私闘とみなし報償を与えなかった。
このため義家は、河内国石川荘の自分の私財を投じて部下に報償を与えた。
それにより東国に武士たちに武家の棟梁としての信望を集めたという。

東国での勢力を伸ばすことに成功した。
しかし、当時はすでに白河法皇の院政期に入っており、院と対立する摂関家の武力として仕えていた河内源氏は白河法皇の陰謀により勢力をそがれ衰退していった。
所有していた荘園は没収され、その上新たに義家への土地の寄進が禁じられるまでになった。
また、二男・義親が対馬守に任じられたのは東国に勢力を伸ばした河内源氏を、勝手の異なる西国の国司とすることで失敗を期待したのだろう。
そのため、義家は政治的にも経済的にも苦境に立たされる。
1106年、九州で乱を起こした義親の討伐を命じられるがその直前に病死した。

頼朝や義経が戦の前に勝利を祈っていたのがこの人だったような。

武勇などに優れすごい人だったようだが時代が悪かったのかはじめはよくてと後がまずいことになっているのが多いような気がする人だな。
まあこの人の活躍が東国であったからこそ、頼朝は東国での幕府設立を目指したのだろう。
豪族の勢力が強く、朝廷には扱いづらい土地だったのもそうだろう。
もともとは平氏勢力が強かったが将門の所為でほとんどなくなったからな。
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