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2005.12.07 源義仲
義経の従兄弟で一番有名な源義仲のことでも書いてみよう。

源義仲

生没年:1154年~1184年

父:源義賢
母:小枝御前(秩父重隆の娘)

女:巴御前(中原兼遠の娘)

子:
源義高
義宗
(源義家側室?)


武蔵国の大蔵館で生まれる。
幼名は駒王丸。
この頃祖父・為義と伯父・義朝の対立が激しくなっていた。
駒王丸の父・義賢は関東での為義派であり、義朝と対立していた。
その過程で父・義賢が甥の源義平に討たれてしまう。
そのため、畠山重能、斉藤実盛らの援助で信濃に逃れ、木曾谷の豪族で乳母夫であった中原兼遠の庇護下で育知、通称「木曾次郎義仲」と名乗った。

1180年、平清盛と対立していた後白河法皇の皇子である以仁王が全国に令旨を発し、叔父・新宮行家が全国で挙兵を呼びかけ始める。
義仲もこれに呼応し挙兵する。

1181年、越後から攻め込んできた城助職を千曲川横田河原の戦いで破る。
一時、上野国へ進むが、関東地方で挙兵した源頼朝とは合流せず北陸道へと進んだ。
この時、同士討ちを嫌った義仲は兼平を和平の使者として派遣する。
頼朝は和平の条件として子を人質として差し出すよう強要した。
義仲はこれに従い、子・義高を頼朝の娘・大姫の婿という名を借りた人質に差し出す。
北陸では逃れてきた以仁王の子を北陸宮として擁立し、北陸を勢力圏として固めた。

1183年、越中国砺波山の倶利伽羅峠の戦いで平の惟盛率いる追討軍を破る。
後、京都まで進軍し平家を西走させた。
京都に入った義仲は、従五位下左馬頭に任ぜられたが、京都の治安回復には失敗し、やがて後白河法皇とも対立するようになる。
行家との間もうまくいかなくなり、軍律は乱れ士気が低下していったという。
そんな中、後白河法皇の命により平家を追撃して山陽道を進み、備中の水島の戦いで敗れる。
11月、京都へ戻った義仲は、法皇を幽閉し政権を掌握してしまう。
1184年1月、数百年ぶりの征夷大将軍に就任したがそれが基で源頼朝と対立する。
そのため、源範頼、源義経率いる頼朝軍に宇治川で敗れ、近江国粟津で戦死した。
享年31歳。

別名「旭将軍」とも呼ばれた。
義仲の周りも優れた武将は多くあれど政治力を有した部下はおらず、自身もそれほど政治力を持っているわけでもなかったようだ。
そのため、京都の治安維持に失敗し、後白河法皇にいいように遊ばれたのかもしれない。
蜂起した当時に信濃まで頼朝が攻めてきた時に返り討ちにしてしまえばよかったのかもしれない。
父の仇でもあった義朝の子・頼朝に勝ててたかもしれない。
頼朝とは直接対決していないがその弟・範頼、義経とは対峙している。

一応平家を京都から直接追い出したのは義仲であるが、どうしてか一番の功労者は源頼朝になっていたという。そのため頼朝との仲がより険悪になったとも言われている。
治安維持に失敗の根が深い為か、その功績は影が薄い。
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