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2005.12.05 源行家
大河ドラマ内でも邪魔者っぽかった源行家のことでも書いてみよう。

源行家

生没年:1145?~1186年

父:源為義
母:熊野別当・長快の娘

子:
源家光
蔵人 行頼
西乗
行覚
(明王院僧正)

熊野別当の娘を母として生まれ、熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と称した。
初めの名乗りは義盛といった。
1159年、平治の乱では兄・義朝に従軍する。
戦闘は破れるが、戦線離脱には成功し熊野に逃れ、その後約20年間は熊野に雌伏した。

1180年、摂津源氏の源頼政に召しだされ、以仁王の平氏追討の令旨を各地に伝達した。
八条院の蔵人に補され、行家と改名したのはこのときだったという。

甥の頼朝に決起を促した行家だが、頼朝の指揮下には入らず独立勢力を目指したため不和となる。
1181年、尾張墨俣城、三河矢作川で二回に渡り、平氏方と交戦するが、壊滅的な敗北を喫し、頼朝の元へ逃れた。
この戦闘で行家は尾張・三河を中心とする武士ら700人弱が被害を被ったという。
そのための変わりに伊勢神宮や延暦寺の勢力と提携しようがうまくいかず、更に、頼朝に所領を求めるなど待遇改善を要求したが拒否されたため、以降は甥の義仲の幕下に走った。
1183年、義仲と共に入京、従五位下備後守に叙任され、すぐに備前守に遷任する。
しかし、程なく朝廷より与えられた恩賞が原因で義仲とも不和になり、身の危険を感じて平氏討伐の名を借りて京を脱出する。
播磨国室山で平重衡らの軍と戦うが、またしても敗北を喫する。
さらに、義仲が派遣した樋口兼光にも敗れて行方不明となる。

義仲一族および平家滅亡した後は、頼朝と不和になった甥・義経と提携する。
義経と共に後白河院から頼朝追討の院宣を受けるなど最後の抵抗を示す。
しかし、大物浦で暴風にあって西国渡航に失敗した後は次第に追い込まれ、逃亡の末に和泉国の民家に潜伏する。
程なく地元民の密告により露見し、北条時定の手兵によって捕らえ、長男・光家、次男・行頼と共に赤井河原で斬首された。

生来、頼朝、義仲、義経などに平氏討伐をさせようとする扇動者、軍略家としての才と権謀術数には長けていたが、戦場などでの軍術の才能は乏しかった様で勝てた戦があまりない。
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