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2005.12.02 源 範頼
義経の兄で活躍していたのに影の薄かった源範頼について書いてみよう。

源 範頼

生没年:?~1193年?

父:源義朝

妻:亀御前

子:
範円
源昭


母は、遠江の池田宿の遊女であったといわれる。
遠江国蒲御厨で生まれ育ったため蒲冠者、蒲殿とも呼ばれる。
藤原範季に養育され、その一字を貰い「範頼」と名乗ったという。

1180年、挙兵した兄・頼朝の元にいつ参加したかは、明示された史料はなく不明瞭だが、出身の遠江を中心に甲斐源氏などと協力して活動していたと見られる。

1183年、日立の志田義広と下野の小山氏との野木宮合戦で、小山氏援軍として関東での活躍が初めて史料上で確認される。
以後、兄・頼朝の代官として大将軍となり鎌倉遠征軍を率いることになる。

1184年、宇治・瀬田の戦いで源義仲を滅ぼす。
また、一の谷の戦いで平氏に大勝し海上へと追いやる。
この功績により三河の守に任じられる。これは名義上のものではなく失脚するまで、最高責任者として三河を支配している。

範頼は九州を攻略する命を頼朝より受け鎌倉を出陣し備前国児島合戦において平氏に勝利する。
しかし、長門国までいたるが瀬戸内海を平氏の水軍に押さえられていることもあり、遠征軍は兵糧不足などにより停滞する。

1185年、豊前国豪族の緒方惟栄の味方などを得て、ようやく兵糧と兵船を調達し、周防より豊前に渡ることに成功する。
九州の平氏方最右翼の原田種直を芦屋浦で打ち破り、長門国彦島に最後の拠点を置く平氏の背後を遮断する。
その後、義経は屋島で勝利し、壇ノ浦の戦いで遂に平氏を滅亡させた。
平氏滅亡後は九州で戦後処理に当たり、鎌倉へ帰った。

鎌倉へ帰った当時、弟・義経と頼朝の間に不和が生じていた。
兄・頼朝より義経追討を命ぜられるがこれは辞退している。
この時、「九郎如き振る舞いはするな」と釘を刺されたという。

1189年、頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦においては、頼朝の中軍を率い出征する。
1190年、頼朝の上洛においても従い、頼朝任大納言の拝賀で前駆を勤めたという。

1193年、曽我兄弟の仇討ち事件の後、範頼は頼朝のことを大層心配した御台所・政子に対して「後には自分が居りまする」と述べたという。
このことが頼朝に謀反の疑いを招き、伊豆国修善寺に幽閉されることになった。
間もなく、頼朝の命を受けた結城朝光、梶原景時、仁田忠常らに攻められ、自害したといわれる。
修善寺では頼朝の子・頼家も殺されている。

範頼の死に関しては異説が多く、範頼は修善寺では死なず、越前へと落ち延びてそこで生涯を終えたともいう。
また武蔵国吉見の吉見観音に隠れ住んだ、埼玉県北本市岩戸宿に逃れたとも伝えられる。
そのため、吉見氏の祖は範頼であると言われている。

義経には負けるが地味に活躍している範頼。
源氏本隊を率いていたはずなのだがすべて義経の功と見られる悲運かもしれない人。
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