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南朝方の有力勢力に近かった菊池氏のことでも書いてみる。

菊池 武時

生没年:1292年~1333年

父:菊池 隆盛

子:
菊池 武重
菊池 頼隆
菊池 武茂
菊池 武舜
菊池 武澄
菊池 武吉
菊池 武豊
菊池 武敏
菊池 武光
菊池 武隆
菊池 武士
菊池 武尚
菊池 武義
菊池 武世


幼名は正竜丸。
父の隆盛が祖父・武房より先に死去した後、菊池氏の家督は兄の時隆が武房の養嗣子となって継いだ。
しかし、伯父の菊池武経がこれに不満を持って対立した。
結果、時隆と武時が共に滅んだため、その後を継いで武時が第12代当主となった。

菊池氏は元寇における恩賞で不満が募っていったという。
1333年、後醍醐天皇の綸旨を受け九州における倒幕勢力を結集し、阿蘇惟直と鎮西探題の北条英時を攻めようとした。
しかし、事前に英時に襲撃計画を察知されて、また少弐貞経、大友貞宗らの裏切りを受け、子の菊池頼隆と共に殺害される。
武時は優れた武将であったが、北条英時を侮り、また博多を焼き払うなど性急な討幕運動を目指したため、逆に少弐氏や大友氏の支持を得られず自滅したという。
しかし、武時の探題襲撃計画は九州における討幕運動のきっかけになったのは確かである。

墓地は福岡市に首塚と胴塚がある。
また熊本の菊池神社に主神として祀られている。





菊池 武光

生没年:1319年~1373年

父:菊池 武時

子:
菊池 武政
菊池 良政


菊池氏、第15代当主。
武時の九男に当たるという。
通称は豊田十郎。法名は誓厳という。

1345年、阿蘇氏と共に菊池氏の居城・深川城を北朝勢力から奪還する。
これを契機に、第13代当主であった兄・菊池武士を廃して自ら当主として就任した。

南朝の皇子で、征西将軍として九州へ派遣された懐良親王を隈部山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に務める。
1351年、筑後に進出して勢力を拡大する。
1353年、北朝の九州探題・一色範氏と、少弐頼尚の争いに介入する。
両者を倒して九州における南朝勢力の隆盛を確立する。
その後、豊後・肥前などに進出し、大友氏秦を降伏させ、また一色範氏を追放する。

1359年、大友氏時の反攻を受け、一時破れる。
しかし、勢力を盛り返して氏時を破り、少弐頼尚に対しては筑後川の戦いに勝利し、また夜襲をかけて太宰府を奪う。

その後も武光は懐良親王を擁して大宰府に征西府を確立する。
1362年、大友氏時と再度戦い、豊後を攻略する。
また九州探題であった斯波氏経が太宰府を攻め来たときは弟の菊池武義と共にこれを撃退する。

1372年、渋川義行に変わり今川貞世が九州探題として派遣される。
そうすると、武光は貞世に敗れ、懐良親王とともに太宰府から逃れ高良山へと逃げる。
1373年、死去。享年52歳。




菊池氏
 九州肥後の豪族。
 肥後国菊池郡に住んでいた太宰少監・藤原則隆から起こっている。
 菊池氏は古代鞠智族の後胤で、いつの頃か北家藤原氏と所縁を持って藤原姓を称するようになったという。
 戦国時代、大友義鎮に滅ぼされた。
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