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2005.10.31 長崎親子
鎌倉幕府最後に専横していた長崎親子について書いてみる。

長崎 高綱

生没年:?~1333年

父:長崎 光綱

子:
長崎高資
長崎高貞
  生没年:?~1334年
 当初は侍所所人であったが、後醍醐天皇が決起すると、幕府軍笠置山攻撃軍の軍奉行として上洛する。
 後期になると北条治時が軍奉行として千早城攻撃軍として出陣したが、六波羅探題が陥落したことにより北条治時と共に出家し降伏した。
 しかし、京都阿弥陀峯で斬首された。




幕府侍所所司・長崎光綱の子で、平頼綱は伯父に当たるとされるが、異説がある。
伯父、父と同様にいわゆる御内人として頭角を現す。
伯父・平頼綱が平禅門の乱で討たれると、父・光綱とともに9代執権の北条貞時を補佐する。
貞時の愛妾であった播磨の局の着帯の儀に出席し、着々と権勢への道を歩んでいこうとしていた。
父・光綱の死により嫡流であった平宗綱が政界に復帰して内管領に就任すると、高綱は一気に不遇となり長崎家は振るわなくなる。
しかし、平宗綱を上総に流し実権の一部を取り返す。

1303年、誕生した北条高時の乳母夫となる。
1305年、さらに北条宗方が北条時村殺害の罪で謀殺され、内管領に就任すると完全に長崎家が実権を取り戻した。
1307年、幕府侍所所司を兼任する。
内管領に就任したからは幕府政治の強化に努め、鎌倉和賀江住人による関米運取等狼藉沙汰や所領問題、取次ぎなどの職務に励んだという。
さらに寄合の合奉行を務めるなど、伯父・平頼綱時代に並ぶほどの重要人物にまでなった。

1310年ごろ、出家し円喜と名乗るようになる。
鶴岡八幡宮の評定衆に就任し別当、供僧の沙汰など寺社務に関与した。
1316年、高時の14代執権就任の前後して内管領職を子・高資に譲る。
幕政に隠然たる力を行使し、宿老として執権をもしのぐ勢力をほこった。
また、北条高時の舅である安達時顕とともに幕府中枢に君臨し、人事も握っていた。
円喜は、安達時顕の嫡子・高景に娘を嫁すなど対立する御家人とは縁戚を結ぶことで懐柔した。
北条貞時の13回忌法要では御内宿老として上席を占め、陰山孫五郎のように御家人であっても御内人の家臣となるものが現れるなど円喜の権勢はすごいものであったという。

1324年、後醍醐天皇による討幕運動が展開されるとこれらの方策には頭を絞ることとなった。
正中の変では天皇の使節として下向した万里小路宣房を安達時顕と主に事情聴取したという。

後醍醐天皇が決起すると、足利尊氏を追討のため京に派遣するが、次々と裏切りが発生した。
1333年、新田義貞勢の鎌倉攻略の際に、鎌倉東勝寺で一族と共に自刃した。




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長崎 高資

生没年:?~1333年

父:長崎 高綱
子:長崎 高重


元は父・光綱のや安達時顕の見習いとして取り次ぎ役等執権側近の雑務に従事していたという。
1316年、北条高時の14代執権就任前後に父により幕府内管領職を譲り受けた。

宿老となった父・円喜を横目に幕府中枢で政治を動かすが、陸奥安東氏の乱で当事者双方より賄賂を受け取った。
それにより長期化・激化させるなど失政をおかし、幕府軍を出兵させるなど幕府権力の弱体化を露呈させ、幕府の権威を失墜させた。

執権・北条高時が執権職を辞任したときは、金沢貞顕を次期執権に擁立、高時の弟・泰家が就任するのを阻止した。
さらに、泰家の怒りを恐れて貞顕が辞任した後は赤橋守時を執権に擁立した。
このように執権の就任順序まで専横する高資に北条高時が高資討伐を内密に計画する。
長崎高頼らに命令するが露見する。
高時は関与を否定して逃れ、長崎高頼は流罪となった。

正中の変や元弘の変など一連の討幕運動を弾圧する。
初期は強硬態度に終始していたが、六波羅陥落後などは鎌倉守備に徹していた。
1333年、新田勢の鎌倉攻略に際に、鎌倉東勝寺にて自刃。




長崎氏
桓武平氏、平盛綱が伊豆国田方郡長崎郷を領地とし「長崎」と称したのが始まりとされている。
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