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鎌倉幕府、最後の執権について書いてみよう。

北条(金沢) 貞顕

生没年:1278年~1333年

父:北条(金沢) 顕時
 幕府評定衆

母:大仏殿
 遠藤為俊の娘。

正室:北条時村の娘

子:北条 貞将 1324年、六波羅探題南方となって上洛。
 1330年、引付頭人筆頭となって鎌倉へ戻る。
 1333年、新田義貞勢の鎌倉攻めの際、これに交戦するが敗れ討ち死にする。

貞冬
貞匡
顕助
(仁和寺真乗院主)
貞助(仁和寺真乗院主)
道顕
顕恵

(右馬助)貞高
小童
(子:娘(北条高時室))




1296年、鎌倉幕府の要職を務める北条氏金沢流の後継者として出仕。
父・顕時が1285年の霜月騒動で連座しており、貞顕の出仕にも影響を与えたとされる。

1302年、六波羅探題南方として上洛。
後、一旦は解任され鎌倉へ戻るが、翌年には六波羅探題北方となる。
1304年、越後守に転任する。
1305年、鎌倉で内管領の北条宗方が連署で貞顕の舅に当たる北条時村を殺害する。
その後時村の謀伐が陰謀であると発覚し、宗方派の処罰する嘉元の乱が起こる。
このときは貞顕の身内にも影響を与えている。

1308年、越後守を辞任して鎌倉へ帰還する。後、引付衆となる。
1310年、六波羅探題北方として再び上洛する。
1315年、連署となり鎌倉へ戻る。

1326年、14代執権・高時が病を受け辞職して出家すると、貞顕も政務の引退と出家を望むが慰留を命じられる。
後継を定めないままの高時の出家は、次期執権に高時の子・邦時を押す長崎氏と、高時の弟・北条泰家(後の時興)を押す外戚の安達氏の対立する得宗家の争いにまで発展する。
貞顕は内管領・長崎高資より、邦時成長までの中継ぎとして擁立され15代執権に就任する。
貞顕の執権就任に反対した北条泰家は出家している。
しかし、得宗・高時ら幕府中枢での権力争いは収まらず、貞顕暗殺の風聞まで立ったため貞顕はわずか一ヶ月あまりで辞して出家、隠退した。
16代執権には北条守時が就任する。
この一連の騒動を嘉暦の政変と呼ばれる。

1333年、鎌倉幕府崩壊に伴い、高時らと共に鎌倉東勝寺にて自刃。
父・顕時と同様に学問を好み、金沢文庫の発展に尽くしたという。
金沢文庫の中には、貞明の書状あるいは彼が収集したとする書物が多数残されている。




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北条 守時

生没年:1295年~1333年

父:北条 久時
母:北条宗頼の娘

子:
益時
 守時の弟・宗時の子という説もある。
 父と共に新田義貞と戦い、洲崎にて自刃する。


 叔父・英時と共に鎮西博多に下向したという。
 和歌をよくし、勅撰和歌集にも載っている。




北条氏の庶流・赤橋家の出身で赤橋守時という名でも知られる。
妹の登子は足利尊氏の正室、弟の北条英時は最後の九州探題である。

1326年、北条貞顕の辞職後、一ヶ月の空位を経て長崎高資らの擁立により執権となる。
そのため、実権は北条得宗家の北条高時や内管領・長崎高資らに握られていた。

1333年、婚姻関係にあった御家人筆頭の足利尊氏が遠征先の京都で幕府に反旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし、守時の幕府内における立場は悪化し、高時より謹慎を命じられた。
その後、許され謹慎を解かれる。
疑惑を晴らすため、新田義貞率いる討幕軍を迎え撃つため、出撃する。
鎌倉の中心部の交通の要衝・巨福呂坂により新田勢と激戦を繰り広げる。
一夜に60合以上打ち合うほどの激戦であったという。
しかし、多数の死者が出るにつれ、初め6万騎あった幕府軍もついには300騎ほどになってしまう。
そのため持ちこたえることは出来ず、最後は敵方に縁者がいることを理由に撤退せず洲崎で自刃する。




赤橋家
 極楽寺流長時の嫡流であり、六波羅探題北方や評定衆、執権など幕府の重職に就くことの多い家。
 得宗家に従順であり代々の信頼も厚く、得宗家に次ぐ名門といえる家柄。
 赤橋という名は鶴岡八幡宮にある赤い反り橋からおきたともいわれる。
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