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2005.10.27 北条 高時
後醍醐天皇の敵とされた北条高時のことでも書いてみよう。

北条 高時

生没年:1303年~1333年

父:北条貞時
 得宗家嫡流、鎌倉幕府第9代執権。

母:大方殿(大室(安達)泰宗の娘)?

妻:
(五大院宗繁の女)
(安達時顕の娘)

子:
北条 邦時   生没年:1325年~1333年

北条 時行   生没年:?~1353年
 鎌倉幕府滅亡の際、鎌倉を逃れ、信濃の諏訪氏に匿われていた。
 1335年、挙兵して一時は鎌倉を奪還したものの、追討に下ってきた足利尊氏に敗れ、以後南朝に属して尊氏に抵抗した。
 後の捕らえられ、斬首。

       生没年:1324年~1326年

養子:
北条 治時   生没年:1318年~1333年
 鎮西探題・北条随時の子。時治ともいわれる。




北条貞時の4男として生まれる。
幼名は成寿丸、法名前は月輪寺殿崇鑑。

小侍奉行を務めていた。
1309年、元服。
1311年、父・貞時の死により得宗家家督を相続。
1316年、14歳で14代執権となる。
当時の幕政は内管領であった長崎高資とその父・円喜に実権を握られていた。
1317年、大覚寺統、持明院統の対立を調停するために両統送立を提案、これが容れられ文和の和談が成立。
1321年、高時は側近の丹羽長朝、長崎高瀬らに円喜に謀伐を命じるが、未遂に終わる。

在任中には諸国での悪党の活動や奥州で蝦夷の反乱、安東氏などの乱が起きる。








1324年、後醍醐天皇が幕府転覆を計画した正中の変で倒幕計画を未然に防ぐ。
後醍醐天皇の側近・日野資朝を佐渡島に配流、計画に加担した土岐頼貞、多治見国長、足助重範らを討つ。
1326年、病のため、執権職を北条貞顕に譲り出家する。
貞顕は執権就任後わずか一ヶ月でその職を赤橋守時に譲る。
この頃より高時の怠惰が顕著となり、政務を長崎高資に任せ、田楽・闘犬など遊興ににふける日々だったといわれている。
そのため、幕政の腐敗と衰退が顕著化し、奥州安東氏の制圧に10年近くを費やしている。

1331年、後醍醐天皇が再び倒幕を企て元弘の変を起こす。
後醍醐天皇の側近・日野俊基を捕らえ処刑し、後醍醐天皇を隠岐島へ流して、新たに持明院統の光厳天皇を立てる。

1333年、後醍醐天皇が伯耆国の名和氏の働きで隠岐島を脱島し、船上山で挙兵する。
幕府は、西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である足利高氏を京都へ派遣する。
しかし、高家は赤松則村の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方へ寝返って六波羅探題を攻略する。
また、関東では新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。
鎌倉が陥落すると北条一族や家臣約870名と共に北条家菩提寺の葛西ヶ谷東勝寺にて自刃。
享年31歳であった。

「太平記」や「鎌倉九代記」など後世の記録では闘犬や田楽に興じた暗君といわれているが、病弱説もあり、そこまでの暗君でもなかったという話もある。
北条得宗家最後の執権であり、鎌倉幕府最後の執権ではない。

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