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2005.10.20 北畠親子
南朝方の優秀な人物だった北畠親子のことでも書いてみよう。

北畠家
 公家の一つ。後の伊勢の戦国大名ともなった一族。
 村上源氏中院家から分かれた名門で、その子孫である中院雅家が洛北の北畠に移ったことから北畠を名乗り、代々和漢の学をもって天皇に仕えたという。
 鎌倉時代末期に北畠親房が出て、後醍醐天皇の新任を受けて初めて源氏長者となる。
 また、庶流の北畠具行も天皇の鎌倉幕府打倒計画に従っており、元弘の変で処刑されている。
 江戸中期以降、宗家は有馬家を名乗っている。



北畠 親房

生没年:1293年~1354年

父:北畠 師重
母:藤原隆重の娘

子:
北畠 顕家
北畠 顕信
北畠 顕能



生後わずか半年で5位に叙される。
15歳のときに自分の同役に本来なら任命されるべきでない官位の低い人物が任命されたことに抗議して後二条天皇に辞表を出すなど剛直な面を見せる。
後伏見院政下では18歳で参議に任じられ、翌年には検非違使別当を務めている。

1318年、後醍醐天皇が即位すると、後醍醐天皇の皇子・世良親王の養育を任される。
吉田貞房、万里小路宣房と共に「三房」と呼ばれ、後醍醐天皇の信任に厚かった。
これまで北畠に許されてなかった源氏長者、また大納言に任命される。
1330年、しかし、世良親王急死の責任を感じて38歳の若さで出家して政界からは引退している。
法名は宗玄(後に覚空)と称す。
そのため、正中の変に始まる後醍醐天皇の倒幕計画には加担していなかったと思われる。

鎌倉幕府が倒され、後醍醐天皇の建武の新政が開始されると、親房は再び政治の舞台へと登場する。
奥州鎮定を命じられた息子・北畠顕家に随行し、義良親王を奉じて陸奥国多賀城へ赴く。

1335年、北条氏の残党による中先代の乱が起き、討伐に向かった足利尊氏がそのまま建武政権から離反すると、尊氏を討伐するために京へと戻る。
尊氏により京都が占領されると、京を逃れた後醍醐天皇が吉野に開いた南朝に従い北朝と対立する。

1338年、息子・顕家が戦死した後、親房は伊勢において、渡会家行の協力を得て南朝勢力の拡大を図る。
ここで親房は家行の神国思想に深く影響を受けることになったという。(伊勢神道に対してはそれほどでもなかったそうだが)
その後、関東地方に南朝勢力を拡大するために結城宗広と共に、義良親王、尊良親王を奉じて伊勢国大湊から海路東国へ渡ろうとするが、暴風にあい両親王とは離散してしまい単独で常陸へ上陸する。
はじめは神宮寺城の小田治久を頼り、佐竹氏に攻められて落城すると阿波崎城、さらに小田氏の本拠である小田城へと移る。
親房は陸奥国白河の結城親朝をはじめ関東各地の反幕勢力の結集を呼びかける。
歴史書「神皇正統記」「職源鈔」の執筆はこの時期であるという。




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1340年、北朝方が高師冬を関東統治のため派遣すると、親房は小田氏に見限られ、関城の関宗佑、大宝城の下妻氏を頼り、霞ヶ浦沿岸の庶城を転々とする。
親房の常陸での活動は5年にも渡った。
しかし南朝方に従った近衛経忠が藤原長者の立場で独自の東国の藤原氏系武士団の統率体制を組もうとした事もあり、親房の構想は敵と身内の両方から突き崩される結果となった。
1343年、関城、大宝城の両城が陥落すると吉野に帰還している。

1348年、四条畷の戦いにおいて楠木正行ら南朝方が高師直に敗れると、吉野から賀名生に落ち延びる。
後醍醐天皇の死後、後村上天皇を補佐する。
観応の擾乱と呼ばれる足利氏の内紛が始まると、尊氏が南朝に降伏し正平統一が成立すると、これに乗じて一時は京都と鎌倉の奪還に成功する。

1354年、賀名生で死去。
親房の死後は南朝には指導者的人物がいなくなり、南朝は北朝との和睦へ傾いていった。

親房は神道・儒教・仏教・歴史等に精通し、「神皇正統記」のほか「元元集」「二十一社記」「東家秘伝」等の著作がある。
また自邸で詩歌合せを開催するなど、和歌にも熱心だったという。




北畠 顕家

生没年:1318年~1338年

父:北畠 親房
子:北畠 顕成

北畠家は村上源氏であるため、正式な名乗りは源顕家となる。
親房の長子。
4歳で叙爵し、14歳の時には参議・左中将となる。
後醍醐天皇の北山行幸のおり、花の宴にて「陵王」を舞い、人々を驚かせたという。
1333年、父が後醍醐天皇の近習であり、顕房もこのとき従三位陸奥守となる。
1334年、後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じ、父と共に陸奥国の多賀城に下向し、東北地方経営を始める。
軍事面では結城宗弘、政治面では親房がいたが旧鎌倉の御家人や北条残党が数多くいた陸奥を瞬く間に治めたと言う。
南部師行や、伊達、相馬らが進んで伺候したということもあり、かなり良い政策を行っていたとされる。
同年、従二位に叙任され、翌年には鎮守府将軍に任じられる。

1335年、足利尊氏が鎌倉にて建武政権に反旗を翻し、京都へ迫ったため、顕家は奥州の兵を引き連れて尊氏軍を追い上京する。
これを新田義貞、楠木正成と共に破り、京より追い出す。
1336年、再度入京を目指す尊氏を摂津の国で破る。尊氏は九州へと落ち延びる。

この功で権中納言に任官、蜂起した足利方を掃討するため、再び奥州へと戻る。
1337年、足利方に多賀城を攻略されるが、顕家は国府を霊山に移していたため難を逃れる。

1338年、再び西上して足利方と戦い、義良親王を奉じて鎌倉を攻略する。
美濃国青野原で足利方に敗れる。
さらに和泉国堺浦で高師直軍と対戦して戦死。享年21歳。
死の前に後醍醐天皇に対して新政の失敗を諌める上奏文を残したという。

創作系統では義経らと同じく、悲劇の美少年扱いされている場合が多い。
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