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2005.10.19 楠木 正成
後醍醐天皇の懐刀、知将・楠木正成について書いてみよう。

楠木 正成

生没年:1294年~1336年

父:楠木 正遠
 娘が伊賀の観世家の服部元成に嫁ぎ、観阿弥の母親になったとされる。
 正遠の代から楠木の姓を名乗ったとされている。



楠木氏
 楠木氏は、橘諸兄を祖とする橘氏の、あるいは橘遠保を祖とする伊予国の橘氏の流れを汲む河内国の豪族とされる。
 しかし、河内には楠木姓の由来となるような地名はなく、北条得宗家被官の一族で、得宗領の河内へ移ってきたとする説、武蔵国出身であるとする説などがある。




河内国石川郡赤坂村に生まれる。
幼名は多聞丸。正式な名乗りは橘正成。
前半生はほとんど不明で、1331年臨川寺領和若松荘「悪党楠木兵衛尉」として歴史に名を残しており、鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の流通ルートを支配する「悪党」と呼ばれる在地豪族であったといわれる。
元弘の変で、後醍醐天皇の挙兵を聞くと傘下に入り下赤坂城にて挙兵する。
夢のお告げともいわれているが実際には、得宗方の紀伊湯浅党との勢力争いがきっかけであったともいう。
後醍醐天皇と正成を結びつけたのは、伊賀兼光、あるいは真言密教僧である文観と思われる。
後醍醐天皇が笠置山で捕らえられたのち、楠木正成は後醍醐天皇を迎えるべく築城した赤城城も落城し、正成は戦死したと見せかけて金剛山に脱出した。

1332年、後醍醐天皇が隠岐島に流された後、吉野で挙兵した護良親王に呼応し、楠木正成も金剛山中腹に千早城を築き再起を図った。
吉野を攻略した幕府軍は数万の軍勢を率いて千早城へと軍を進めた。
楠木軍は約数千人の兵で千早城に立て篭もっていた。
鎌倉軍は小さな城だと侮り数で攻めるが、正成は幕府軍を城近くまで引き寄せた上で、櫓から大石や大木を次から次へと落とすという奇襲作戦で幕府軍を混乱に陥れた。
さらに、一重に見せかけた城壁は二重になっていて、攻め寄せた大軍に対して外側の壁を倒した為、六千人もの幕府兵が谷底に落ちたという。
また、甲冑を着せた藁人形を城の麓に並べて幕府側を翻弄したり、正成は知略の限りを尽くし、幕府方の大軍を翻弄し、約100日近くにわたり篭城したという。
1333年、足利尊氏や新田義貞、赤松円心、護良親王等の活躍で鎌倉幕府が滅びて後醍醐天皇の建武の新政がはじまると、正成は記録所寄り人、雑訴決断所奉公人、河内・和泉の守護となる。
建武の新政においては、正成と結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて「三木一草」と併称された。



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1335年、中先代の乱を討伐に向かった尊氏がそのまま新政に離反し、尊氏追討の命を受けた義貞が箱根・たけのしたの戦いで敗北して足利軍が京へ迫るが、北畠顕家らと連絡して足利方を京より駆逐する。

翌年に九州で軍勢を整えて陸路と海路から再び京へ迫ると、正成は後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するように進言するが、献策は後醍醐天皇に容れられなかった。
1336年、義貞の旗下での出陣を命じられる。
義貞は播磨の白旗城に篭城する足利方の赤松則村を攻めている間に時間を空費する。
水軍のない宮方は、新田軍が湊川に布陣し、楠木軍が湊川の西方の西野宿に布陣する。
合戦では、細川貞禅が海路を東進し生田の森から上陸すると、義貞は退路を建たれると危険を感じて敗走し、楠木軍は孤立してしまう。
正成は陸路を進んだ足利直義軍に対し奮戦する。
しかし多勢に無勢はいかんともしがたく、楠木軍は敗れ、正成は弟の楠木正季と刺し違えたとされる。
新田義貞は京へと退却している。
正成の首は六畳河原にさらされた後、尊氏の配慮により河内の妻子の元へと送られたという。

楠木正成は戦前は天皇に忠義を尽くした正義の将とされる。
しかし考え方では足利尊氏に近いものがあったのではないかとされる。
新田義貞を切り捨てて足利尊氏に和睦をたびたび具申していたのもそのためであるとされる。




子:
楠木 正行   生没年:1326年~1348年
正成の嫡男。「大楠公」と尊称された正成に対して小楠公と呼ばれる。
湊川の戦で父正成が戦死した後も南方として戦う。
11歳当時、父の首を見て自害しようとしたが母に涙ながらに諌められて思いとどまったという。
1348年、河内国四條畷で行われた四条畷の戦いにおいて足利方の高師直・師秦兄弟と戦い敗北する。
弟の楠木正時と刺し違えて自害した。

楠木 正時   生没年:?~1348年
正成の次男。
1328年、四条畷にて高師直・師秦兄弟と戦い敗北し、兄・正行と刺し違えて自害。

楠木 正儀   生没年:?~1389年
1348年、兄・正行、正時の戦死すると家督を継ぎ、南朝の先鋒武将となる。
1352年、正平統一後、北畠昭信、千種顕経らと共に足利義詮を駆逐し京都に帰還し、畿内各地に兵を広げ摂津・河内国において勢力を拡大する。
その後、和平を進めるが、南朝方の主戦論者の非難を受け失敗。
1369年、正儀が細川頼之を介して足利義満に帰服し、北朝に投降する。
このため楠木一族から反発を買い攻められるが、細川氏の主力とした援軍を授けられている。
1379年、康暦の政変で細川頼之が失脚すると、1382年に南朝方に帰参し、参議を命じられている。
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