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2005.10.17 新田 義貞
足利尊氏のライバルといわれる新田義貞のことでも書いてみる。

新田 義貞

生没年:1301年~1338年

父:新田 朝氏

弟:脇屋 義助   生没年:1305年~1342年
太田の西部、脇屋の地を領地としたところから脇屋を名乗っている。
義貞の死後、後をついで戦い足羽城を落とすが、足利軍に追われ奈良の吉野に入る。
1342年、中国・四国方面の総大将に任命され伊予国分城に渡るが、病死したという。

女:
勾当内侍(一条経尹の娘)
後醍醐天皇に下賜された女官。太平記にしか記述がなく、存在自体疑われている。

安東入道聖秀の娘
由良光氏の娘





新田氏
源義家の孫・義重を祖とし上野国新田荘を本貫とする豪族的武士。
平安末期、源頼朝が平清盛政権に対し毛挙兵したとき、義重は戦況を日和見していたため、頼朝に疑心を持たれ鎌倉幕府から遠ざけられ、足利氏よりも下に見られていた。
4代・新田政義は、京都大番役を不服とし幕府に無断で出家したために、新田氏総領職は没収され一族は非嫡流の新田(世良田)頼氏に与えられてしまった。
新田氏の一族には、山名、里美、大館、世良田、岩松、横瀬、由良などがある。




はじめ小太郎と称した。
義貞の時、新田氏の所領は新田荘60郷の内わずか数郷に過ぎず、義貞自身も無位無官であり、日の目を浴びない存在であった。
幕府は新田荘に対し多大な軍費を要求し、横暴的な取立てを行っていた。
これが義貞の幕府に背き挙兵のきっかけになったといわれている。

1333年、幕府軍の千早攻めの途中で脱落して本国に帰った義貞は、守護北条氏の臨時徴税使を斬って旗揚げを決意する。
荘内生品神社で一族と共に挙兵した。このときの軍勢はわずか150騎にすぎなかったと言われている。
当初、利根川を越えて越前方向へ進軍する予定であったが、弟の脇屋義助に諭され、鎌倉攻めを決意したという。
新田軍は上野国守護所を落とし、利根川を越えた時点で足利尊氏の嫡子・千寿王(後の足利義詮)の軍と合流し、千寿王を奉じた。
河内源氏の後胤の嫡流を称する足利尊氏の嫡男を奉じた新田軍はの数万規模にまで膨れ上がったという。

軍勢を従えて鎌倉街道を南進した義貞は入間川を渡り小手指ヶ原に達し、桜田貞国、金沢貞将率いる幕府軍と衝突する。
兵数は幕府軍のほうが勝っていたが、幕府への不満を募らせていた河越氏ら武蔵の諸侯の援軍を得ることで新田軍は次第に有利となり、幕府軍を分倍河原まで後退させた。
分倍河原に陣を張り、軍勢を立て直した幕府軍は再び新田軍と交戦を開始する。
新田軍は一度大敗を喫したが、翌日には援軍に駆けつけた三浦義勝らの兵を合わせて幕府を撃破している。
これには、足利尊氏の六波羅探題滅亡の報による、幕府軍の寝返りなどが大きいとも言われている。
藤沢まで軍を進めた義貞は、軍を極楽寺坂切通し方面と巨副呂坂切通し方面に分けて鎌倉に総攻撃を開始する。
極楽寺坂切通しの突破を困難と判断した義貞は、稲村ヶ崎から強行突破し、幕府の背後を突いて鎌倉へ乱入した。
北条高時は東勝寺で自殺し幕府は倒れた。挙兵からわずか15日で幕府を滅亡にまで導いた。
しかし、鎌倉陥落後、千寿王を補佐するために足利尊氏が派遣した細川和氏・顕氏兄弟らと衝突し、居場所を失った義貞は上洛する。








建武政権下での義貞以下新田一族は国司や武者所蔵人として重用され諸国を転戦する。
しかし、東国武士の吸引を巡る足利氏との抗争には敗れている。
このとき、一族の岩松、山名氏などが足利方となり足元も揺らいだ。

1335年、中先代の乱が起きると足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かい、鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめた。
尊氏は義貞を君側の奸であるとしてその討伐を後醍醐天皇に上奏するが、逆に義貞に対して尊氏追討令を発した。
義貞は尊良親王を奉じて東海道を鎌倉へと向かう。
弟・脇屋義助と共に矢作川の戦い、手越し河原の戦いでは足利義直、高師秦の軍を破る。
が、鎌倉から出撃した尊氏に箱根・竹之下の戦いで撃破され、京都へ逃げ帰る。

1336年、京都市外で再び尊氏と戦い、奥州の北畠軍の西上に呼応して勢力を盛り返した。
また京都で楠木正成らと連合して足利軍を駆逐することに成功する。
再入洛を目指す足利軍を摂津国豊島河原で破る。
この功により、正四位下左近衛中将に叙任される。

さらに、九州へ奔る尊氏を追撃するものの、播磨国の赤松則村に阻まれて断念する。損良親王を奉じて
尊氏は九州平定後、海路東上後してくるが、義貞は白旗城に篭城する赤松軍を攻めあぐね、時間を浪費する。
楠木正成らと共同して戦った湊川の戦において義貞は和田岬に陣を構え戦うが、足利水軍の水際防衛に失敗し、西宮で再起を図るが京都へ敗走する。

湊川の戦後、比叡山へ逃れた宮方は、足利方に奪還された京都を取り戻すために賀茂糺河原などに攻め下るが阻まれる。
醍醐天皇は足利方との和議を進め、朝敵となる可能性の出た義貞は、後醍醐天皇から一時的に皇位を譲られた恒良親王と、子・良詮、弟・脇屋義助と共に北陸道を進み金ヶ崎城に入る。

1337年、高師秦・斯波高経率いる軍勢により金が咲き城は落城、尊良親王、義顕は自害し、恒良親王は京へ護送される。
落城後は杣山上による。

1338年、藤島の燈明寺畷で斯波高経軍との合戦中、戦死する。
「太平記」では矢に当たり不慮の死を遂げたとされる。享年38歳。

新田貞義は、勤皇派の忠臣としても名が高いが、楠木正成を死に追いやった無能の将とも言われる。
また尊氏にライバル視したといわれているわりには鎌倉を攻めるのに足利氏の名を使わなければ兵を集められなかったなどいささか矛盾しているような気もする。




子:
新田 義顕   生没年:1320年~1337年
長子。母は安東入道聖秀の娘。幼名は小太郎。
父・義貞と共に恒良親王と尊良親王を奉じて北陸へ赴く。
1337年、越前金ヶ崎城を守るが、斯波高経らの猛攻を受け城は陥落する。尊良親王と共に自害。
以下三百余人が殉じたという。恒良親王も幽閉され、翌年には死去。

新田 義興   生没年:1331年~1358年
次男。母は由良光氏の娘。幼名は徳寿丸。
父の死後、南朝方の武将として兄弟の新田義宗らと共に北朝方と戦う。
観応の擾乱が起こると、鎌倉の奪還を目指した上野国で北条時行らと共に挙兵する。
1352年、足利尊氏が南朝に降伏して正平一統がなると、宗良親王を奉じて鎌倉を一時占拠するが、尊氏の反撃にあい鎌倉を追われる。
1358年、尊氏が没した半年後、尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清によって送り込まれた竹沢右京亮と13人の主従により、多摩川の矢口渡りで謀殺される。

新田 義宗   生没年:1335年~1368年
三男。母は安東入道聖秀の娘、あるいは勾当内侍。
父・義貞の死後、逃れて再起を図る。
1352年、宗良親王を奉じて上野で挙兵し、鎌倉にいた足利尊氏を追走後、兄・新田義興の陣へ入る。
その後、尊氏に敗れて越後へ落ち延びる。
1354年、宗良親王、千種顕経と共に越後の宇加地域を攻撃。
その後、1368年、上野で敵の矢を目に受け、落馬して討ち死にしたとされている。
しかし、そこで討ち死にせず、武蔵所沢へ逃れ反撃の機会を窺っていたが、戦乱が収まったことを契機に出家し一族の菩提を弔い、1409年に亡くなったという説もある。


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