上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2005.10.13 後醍醐天皇
鎌倉幕府を倒そうとした、後醍醐天皇について書いてみよう。

後醍醐天皇

生没年:1288年~1339年
在位:1318年~1339年 第96代天皇。

父:後宇多天皇
母:藤原(五辻)忠子


大覚寺統の後宇多天皇の第2皇子として生まれる。
1302年、親王宣下。諱を尊治。
1304年、大宰師となり、帥の宮といわれた。
1308年、当時の皇統は大覚寺・持明院両統に分裂していたが、大覚寺統の後宇多は第1皇子である後二条天皇の子・邦良に皇位を伝えようとし、尊治は邦良幼少時の中継ぎとして持明院統の花園天皇の皇太子に立った。
尊治は儀式典礼に関心が深く学問・若など書道に意欲的である一方、一生の間に20人前後の女性に40人近い子を産ませたように絶倫な精力の持ち主であった。
1318年、持明院統の花園天皇の譲位し、31歳で即位。
即位後3年間は、父・後宇多法皇が院政を行った。

1321年、後宇多天皇の申出が幕府に認められ天皇親政を実現。
吉田定房、北畠親房ら人材を登用。記録所を復活するなど朝廷政治の一新に努めた。
儒教的な徳治主義と律令国家の再現(延喜・天暦時代の復古)を政治理想とし、宋学的名文論を学んで倒幕を企てた。

1324年、後醍醐天皇の鎌倉幕府妥当計画が発覚する正中の変が起こる。
後宇多法皇の死後、邦良親王は後醍醐天皇に譲位を行わせるべく鎌倉へ伺いを立てていた。
また、持明院統もまた、邦良親王の即位後に量仁親王を皇太子にすることを条件にこの動きを支持していた。
後醍醐天皇は六波羅探題の南方・北条維貞が鎌倉に赴いている最中に鎌倉幕府妥当を企て、側近の日野資朝、日野俊基らは諸国を巡って各地の武士や有力者に倒幕を呼びかけていた。
畿内などで活動が活発であった悪党や、奥州での安東氏と蝦夷の対立など、政情不安に乗じたものであると考えられる。
しかし、六波羅探題が察知し、計画は事前に発覚した。
土岐頼貞、多治見国長、足助重範など密議に参加した武将は討伐され、俊基らは赦免されたが鎌倉へ連行され佐渡島へ流刑となる。
後醍醐天皇は側近の万里小路宣房らが鎌倉へ赴いて釈明を行いお咎めなしで終わっている。

後醍醐天皇はその後もひそかに倒幕を志し、醍醐寺の文観や恵鎮などの僧を近習に近づける。
1329年、中宮の御産祈祷と称して関東調伏祈祷を行い。興福寺や延暦寺など南都の寺社に赴いて寺社勢力と接近する。
しかし、このころから大覚寺統を支持する公家の間で天皇派と邦良親王派への分裂が見られ始める。
また後者の人々には持統院側やや幕府も支持したために天皇側は窮地に立たされていく。
そして邦良親王が急死した後には退位への圧力がいっそう強まることとなった。

1331年、再度の倒幕計画が側近・吉田定房の密告により発覚する。これを元弘の変という。
探題は軍勢を御所の中まで送り、天皇を監視していた。
しかし、後醍醐天皇は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけ、三種の神器を持って挙兵し、笠置山に篭城する。
後醍醐天皇の皇子・護良親王や河内国の武将・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和の吉野および、河内の下赤坂城で挙兵する。
しかし、大規模な幕府軍の前に笠置山、吉野、下赤坂と共に落城する。
護良、正成は逃亡し潜伏するが、後醍醐天皇は側近の千種忠顕と共に捕らえられる。
翌年、佐渡へ流罪となっていた日野俊基や北畠具行は斬首となり、後醍醐天皇は隠岐島へ流罪となる。
幕府は統送立の取り決めに従い、持等院統の光厳天皇を即位させる。
しかし後醍醐は退位を拒否した所為で二人の天皇、元号が並び立つこととなる。

逃亡し潜伏した護良親王、楠木正成、播磨国の赤松則村らの反幕勢力は各地で活動をしている。
1333年、名和長年ら名和一族の働きにより後醍醐は隠岐島を脱出し、伯耆国船上山で挙兵を開始する。
これを追討するため幕府から派遣された足利尊氏が天皇方に味方して六波羅探題を攻略。
その直後、東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させ、北条氏は滅亡となる。

帰京した後醍醐は光厳天皇の皇位を否定、建武の新政を開始する。
しかし、表面上は復古的であるが内実は中華皇帝的な天皇独裁を目指したものであり、性急な改革、土地訴訟への対応の不備、恩賞の不公平、武家を排除した政権運営、大内裏建設計画など各方面から不満を呼び政権の求心力は失墜する。


















楽天ブックス http://books.rakuten.co.jp/afa8/

1,500円以上の注文は送料無料!









キーワードを入力して書籍検索ボタンを押して下さい。




鎌倉幕府を倒そうとした、後醍醐天皇について書いてみよう。

後醍醐天皇

生没年:1288年~1339年
在位:1318年~1339年 第96代天皇。

父:後宇多天皇
母:藤原(五辻)忠子


大覚寺統の後宇多天皇の第2皇子として生まれる。
1302年、親王宣下。諱を尊治。
1304年、大宰師となり、帥の宮といわれた。
1308年、当時の皇統は大覚寺・持明院両統に分裂していたが、大覚寺統の後宇多は第1皇子である後二条天皇の子・邦良に皇位を伝えようとし、尊治は邦良幼少時の中継ぎとして持明院統の花園天皇の皇太子に立った。
尊治は儀式典礼に関心が深く学問・若など書道に意欲的である一方、一生の間に20人前後の女性に40人近い子を産ませたように絶倫な精力の持ち主であった。
1318年、持明院統の花園天皇の譲位し、31歳で即位。
即位後3年間は、父・後宇多法皇が院政を行った。

1321年、後宇多天皇の申出が幕府に認められ天皇親政を実現。
吉田定房、北畠親房ら人材を登用。記録所を復活するなど朝廷政治の一新に努めた。
儒教的な徳治主義と律令国家の再現(延喜・天暦時代の復古)を政治理想とし、宋学的名文論を学んで倒幕を企てた。

1324年、後醍醐天皇の鎌倉幕府妥当計画が発覚する正中の変が起こる。
後宇多法皇の死後、邦良親王は後醍醐天皇に譲位を行わせるべく鎌倉へ伺いを立てていた。
また、持明院統もまた、邦良親王の即位後に量仁親王を皇太子にすることを条件にこの動きを支持していた。
後醍醐天皇は六波羅探題の南方・北条維貞が鎌倉に赴いている最中に鎌倉幕府妥当を企て、側近の日野資朝、日野俊基らは諸国を巡って各地の武士や有力者に倒幕を呼びかけていた。
畿内などで活動が活発であった悪党や、奥州での安東氏と蝦夷の対立など、政情不安に乗じたものであると考えられる。
しかし、六波羅探題が察知し、計画は事前に発覚した。
土岐頼貞、多治見国長、足助重範など密議に参加した武将は討伐され、俊基らは赦免されたが鎌倉へ連行され佐渡島へ流刑となる。
後醍醐天皇は側近の万里小路宣房らが鎌倉へ赴いて釈明を行いお咎めなしで終わっている。

後醍醐天皇はその後もひそかに倒幕を志し、醍醐寺の文観や恵鎮などの僧を近習に近づける。
1329年、中宮の御産祈祷と称して関東調伏祈祷を行い。興福寺や延暦寺など南都の寺社に赴いて寺社勢力と接近する。
しかし、このころから大覚寺統を支持する公家の間で天皇派と邦良親王派への分裂が見られ始める。
また後者の人々には持統院側やや幕府も支持したために天皇側は窮地に立たされていく。
そして邦良親王が急死した後には退位への圧力がいっそう強まることとなった。

1331年、再度の倒幕計画が側近・吉田定房の密告により発覚する。これを元弘の変という。
探題は軍勢を御所の中まで送り、天皇を監視していた。
しかし、後醍醐天皇は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけ、三種の神器を持って挙兵し、笠置山に篭城する。
後醍醐天皇の皇子・護良親王や河内国の武将・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和の吉野および、河内の下赤坂城で挙兵する。
しかし、大規模な幕府軍の前に笠置山、吉野、下赤坂と共に落城する。
護良、正成は逃亡し潜伏するが、後醍醐天皇は側近の千種忠顕と共に捕らえられる。
翌年、佐渡へ流罪となっていた日野俊基や北畠具行は斬首となり、後醍醐天皇は隠岐島へ流罪となる。
幕府は統送立の取り決めに従い、持等院統の光厳天皇を即位させる。
しかし後醍醐は退位を拒否した所為で二人の天皇、元号が並び立つこととなる。

逃亡し潜伏した護良親王、楠木正成、播磨国の赤松則村らの反幕勢力は各地で活動をしている。
1333年、名和長年ら名和一族の働きにより後醍醐は隠岐島を脱出し、伯耆国船上山で挙兵を開始する。
これを追討するため幕府から派遣された足利尊氏が天皇方に味方して六波羅探題を攻略。
その直後、東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させ、北条氏は滅亡となる。

帰京した後醍醐は光厳天皇の皇位を否定、建武の新政を開始する。
しかし、表面上は復古的であるが内実は中華皇帝的な天皇独裁を目指したものであり、性急な改革、土地訴訟への対応の不備、恩賞の不公平、武家を排除した政権運営、大内裏建設計画など各方面から不満を呼び政権の求心力は失墜する。

1335年、中先代の乱の鎮圧のため勅命ないままに東国に出向いた足利尊氏は乱の鎮圧につき従った武士に鎌倉で独自の恩賞を与えるなど新政から離反し始める。
後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じる。義貞は箱根、竹の下の田での戦いでは破れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡し、足利軍を破る。
尊氏は九州へと落ち延びるが、翌年には体勢を立て直し、光厳上皇の院宣を得た後再び京都へと迫る。
楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが、これを退けて、義貞と正成には尊氏追討を再び命じる。
しかし、新田・楠木軍は湊川の戦で敗北し、正成は討ち死に、義貞も都へと逃げ帰る。


















楽天ブックス http://books.rakuten.co.jp/afa8/

1,500円以上の注文は送料無料!









キーワードを入力して書籍検索ボタンを押して下さい。





1336年、足利軍が入京すると後醍醐は比叡山へ逃れ抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種に神器を足利方へ渡す。
尊氏は、持明院統の光明天皇をたて、建武式目を制定し正式に幕府を開く。
その直後吉野に逃れ南朝を立てた。これにより、京都の朝廷と吉野の朝廷が並立する南北朝時代が始まることとなる。

後醍醐天皇は尊良親王や恒良親王を新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を陸奥国へ、と各地に自分の皇子を送り北朝方に抵抗させようとした。
しかし劣勢を覆すことが出来ないまま病に倒れる。
1339年、吉野に戻っていた義良親王に譲位し、翌日吉野金輪王寺で崩御する。享年52歳。
天皇の諡号は遺言により定められたという。
尊氏はこれを弔い京都に天竜寺を造営している。



后妃:
藤原禧子 ― 生没年:1303年~1333年
 従一位太政大臣・西園寺実兼の娘。中宮。後京極院。

子内親王 ― 生没年:1311年~1337年
 後伏見天皇の娘。中宮。新室町院。

一条局 ― 参議正三位・藤原実俊の娘。遊義門院。

左衛門督局 ― 御子左為忠の娘。遊義門院。

阿野廉子 ― 生没年:1301年~1359年
 正四位下左近衛中将・阿野公廉の娘のち、洞院公賢の養女。女院。皇太后・新持賢門院。三位局とも呼ばれた。
 後醍醐天皇の寵妃として有名。1319年、西園寺禧子が中宮として冊立された際、19歳にして上臈として入侍する。
 やがて禧子を押しのけて、寵愛を一身に集めるようになったと言う。
 1332年の元応の変において隠岐島配流にも随行している。
 建武の新政においては、准三后の栄誉を授かる。
 政治的影響力もあったと思われ足利尊氏と結託して後醍醐天皇と対立した護良親王の失脚、殺害にも関与したとされる。

 ― 大納言・源師親の娘。
藤原為子 ― 生没年:?~1312年。二条為世の娘。
藤原栄子 ― 従一位関白・二条道平の娘。女御。
匂当内侍 ― 源経資の娘。
民部卿三位 ― 日野経光の娘?。
権中納言局
民部卿局
山科実子
 ― 洞院公敏の娘。
坊門局
権大納言三位局
 ― 二条為道の娘。
大納言典侍 ― 北畠師重の娘。
匂当内侍 ― 世尊寺経朝の娘。



子:
護良親王 ― 生没年:1308年~1335年。第一皇子。源師親の娘との子。大塔宮と呼ばれた。建武の新政時、征夷大将軍となっていたが、後醍醐天皇と反目し始めその地位を剥奪される。後足利尊氏によって鎌倉へ監禁、殺害される。これには自分の子を天皇に就けようとした阿野廉子がかかわっていたと言う。

尊良親王 ― 生没年:1311年~1337年。第二皇子。藤原為子との子。一品中務卿。
宗良親王 ― 生没年:1312年~1385年。第三皇子。藤原為子との子。
世良親王 ― 生没年:1312年~1330年。第四皇子。一条局との子。上野太守大宰師。
無文元選 ― 生没年:1323年~1390年。第五皇子。源師親の娘との子。
恒良親王 ― 生没年:1325年~1338年。第六皇子。阿野廉子との子。皇太子。
法仁法親王 ― 生没年:1325年~1352年。第七皇子。源師親の娘との子。
成良親王 ― 生没年:1326年~1344年。第八皇子。阿野廉子との子。上野太守。
義良親王 ― 生没年:1328年~1368年。第九皇子。阿野廉子との子。後の後村上天皇。
懐良親王 ― 生没年:1329年~1383年。第十皇子。源師親の娘との子。
満良親王 ― 第十一皇子。源師親の娘との子。
躬良親王 ― 源師親の娘との子。
満良親王 ―源師親の娘との子。
恵尊法親王 ― 源師親の娘との子。
恒性 ― 生没年:?~1331年。源師親の娘との子。
聖助法親王 ― 源師親の娘との子。
玄円法親王 ― 源師親の娘との子。興福寺別当。
最恵法親王 ― 源師親の娘との子。
知良王 ― 源師親の娘との子。
醍醐宮 尊真 ― 源師親の娘との子。
皇女 ― 生没年:1314年~?。藤原禧子との子。
懽子内親王 ― 生没年:1316年~1362年。藤原禧子との子。
静尊法親王 ― 一条局との子。
皇女 ― 一条局との子。
皇女 ― 左衛門督局との子。
祥子内親王 ― 阿野廉子との子。斎宮。
惟子内親王 ― 阿野廉子との子。
幸子内親王 ― 生没年:1335?~?。子内親王との子。
瓊子内親王 ― 生没年:1316?年~1339年。藤原為子との子。
欣子内親王 ― 藤原為子との子。准三宮。
皇女 ― 匂当内侍(源経資の娘)との子。
妣子内親王 ― 民部卿三位との子。
貞子内親王 ― 権中納言局との子。
皇女 ― 平基時の娘との子。
皇女 ― 民部卿局との子。従一位内覧関白・近衛基嗣の北政所。
皇女 ― 山階実子との子。
瑜子内親王 ― 洞院公敏の娘との子。
皇女 ― 坊門局との子。
皇女 ― 権大納言三位局との子。
用堂

スポンサーサイト

Secret

TrackBackURL
→http://bxneko.blog12.fc2.com/tb.php/130-7fa34823
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。