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2005.10.10 足利 直義
足利尊氏を書いたので、二頭政治をやっていた弟の直義のことでも書いてみる。

足利 直義

生没年:1306年~1352年

父:足利 貞氏
母:上杉 清子
正室:渋川貞頼の娘。
養子:足利 直冬
 足利尊氏の子。母親の身分が低かったため実子として認められられず直義の養子となった。
 観応の擾乱の際、義父方に最後まで付いていた。
 晩年は没落したらしいが詳細などは分かっていない。


当初、鎌倉幕府執権・北条高時より一字を受け高国と名乗るが、のちに直義と改名している。
1333年、後醍醐天皇が配流先の隠岐の島を脱出して鎌倉幕府打倒の兵を挙げると兄・足利尊氏と共にこれに味方し、六波羅探題攻めに参加する。
このときに、尊氏が人質(妻子)に取られたいたため動けなかったのを見越しそれを新田に託したことで尊氏の憂慮の念を取り払い、鎌倉幕府への反乱を促したとも言われる。

建武の親政では左馬頭・相模守となり、成良親王を奉じて鎌倉に下向し執権となり、鎌倉将軍府の基礎を築く。

1335年、中先代の乱が起こると武蔵国井出沢にて出陣して時行を迎撃するが敗れる。
時行軍が鎌倉に迫るとそれに乗じて鎌倉に幽閉されていた護良親王を殺し鎌倉から三河国矢作へ逃れた。
直義は後醍醐天皇に無断で京都から乱の鎮圧に向かった尊氏軍と合流し東海道を東へ進み、鎌倉を奪還する。
尊氏は付き従った将兵に鎌倉で独自に論功行賞などを行うが、これは直義の意向が強かったとされている。

建武政権から尊氏追悼例が出て、京都から新田義貞を総指揮官とする追討軍が派遣されると、尊氏は赦免を求めて隠棲し、直義らは駿河国手越河原で新田義貞を迎撃するが敗北。
これに危機感を持った尊氏が出馬すると直義はこれに合流して、箱根竹ノ下で新田軍を破り京都へ進撃する。
1336年、尊氏軍は入京するが、奥州から上洛した北畠顕家や楠木正成、新田義貞軍に敗れ、九州へ落ちた。
足利軍は多々良浜の戦いで菊池武敏を破って体勢を立て直し東上する。
光厳上皇の院宣を得て、海路の尊氏軍と陸路の直義軍に別れて進み、湊川の戦で新田・楠木両軍を破り再び入京する。

京都で尊氏は光明天皇を擁立し、建武式目を制定し室町幕府を成立させる。
この建武式目の制定にも直義の意向が強かったとされる。
1338年、尊氏は光明天皇より正式に征夷大将軍に任じられる。同時に直義は左兵衛督に任じられる。
将軍・尊氏が軍事指揮権を掌握し、直義は裁判を中心として日常的な政務を執行する二頭政治を行う。

1348年、守護級の足利一門や寺社本所勢力の支持を得たが、畿内近国の新興領主層を組織した高師直派との対立が深まり、観応の擾乱となった。
直義は立場上、武家によって寺領である荘園を会食された公家や寺社の訴えを扱うことが多く、鎌倉時代のように公家や寺社の領地である荘園に独立性を認め武家の支配下に置かないことで公家・寺社と武家との対立を避けようとしていた。
一方師直は武士たちが幕府に敵対したり南朝側についたりしないよう、十分な恩賞を与える必要性を感じ、守護・地頭やその配下と言う形で公家や寺社の荘園を実際に管理している武家が土地支配者となるべきであると考えていた。
このため、直義を支持する一派と師直を中心とする一派が幕府の主権を巡って対立を深めた。
尊氏は傍観的立場をとろうとするが、次第に師直派に取り込まれていく。
また、後醍醐天皇が吉野で成立させていた南朝も混乱に乗じて勢力を強めることになる。








1349年、上杉重能(尊氏・直義の母方の従兄弟)や畠山直宗、禅僧の妙吉らは直義に進言し、直義が尊氏に対して高師直を讒言させる。
(「太平記」ではこのとき直義派による師直の暗殺騒動が存在したとされる)
師直は直義の要請により、執事を解任される。後任には師直の甥の高師世が就いている。
直義は北朝の光厳上皇に師直追討の院宣を要請し、師直を討とうとする。
しかし、院宣が出る前に師直は河内から上洛した高師秦と共に手勢を集め、直義に対して武力による先生攻撃を行った。
直義の養子で中国探題に任命されて備後国にいた足利直冬は、
直義のことを知ると、直義に味方するため上洛しようとするが、師直に命令された赤松則村ら阻止される。
また、師直は尊氏に直冬の追討を要請する。
直冬は九州へ落ち延び、少弐氏らの九州勢力らに迎えられる。

一方直義は、尊氏の邸に逃げ込むが、師直は大軍をもってこれを包囲。
師直は、重能、直胸の身柄の引渡しを要求する。
禅僧の夢窓疎石の仲介もあり、重能、直宗の配流、直義の出家し幕政から退くことを条件に、師直は包囲を解く。
直義が政務を退く代わりに鎌倉にいた尊氏の嫡子・足利義詮が上洛して、次期将軍として政務を執ることとなる。
直義は出家して恵源と称した。
この事件は、直義排除のために師直、尊氏の間で了解があったとする噂が存在し、現在でも意図されていたものと言う考え方が強い。

1350年、北朝は元号を「観応」に改める。
尊氏は九州で勢力を拡大する直冬追討のため出陣する。その間に直義は京都を出奔する。
尊氏が進撃を続ける間に、直義は畠山国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏をはじめ、山名時氏、斯波高経らを味方につける。
関東では上杉憲顕が高一族の高師冬を駆逐する。
ようやく尊氏は備後から軍を返し、高兄弟もこれに加わる。
観応の擾乱はこのときが始まりとされるが前後関係も含める場合が多い。

直義は高兄弟の追討のために諸国の兵を募る。
光厳上皇による直義追討令が出ると直義は南朝へと下っている。

1351年、直義軍は義詮を京都から追い払い、北朝を確保する。
尊氏は攝津打出浜の闘いで直義に敗れ、師直、師秦兄弟の出家を条件に直義と和睦する。
高兄弟は京都への護送中に一族ともども謀殺される。
直義は義詮の補佐として政務に復帰している。

師直を討つが尊氏との対立は解けず、幕府内では高一族滅亡後も、直義派と反忠義派との対立構造は続いていた。
佐々木道誉や赤松則祐らが南朝と通じて幕府に反すると、尊氏は近江へ佐々木、尊氏の子・義詮は赤松討伐のために播磨へとそれぞれ出兵する。
尊氏・義詮らは道誉らは密約があり京都への挟撃を試みたとも言われ、直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴い京都を脱出した。
北陸に逃れ各地で転戦して鎌倉に入る。

尊氏は南朝とも講和し、和議の提案と直義・直冬追討の綸旨を要請する。。
南朝は、北朝が保持していた三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件に和睦に応じる。
尊氏は南朝に降伏することで綸旨を得ている。

尊氏が南朝に降伏したことにより北朝の崇光天皇や皇太子・直仁親王は廃され、年号が「観応2年」から「正平6年」へと統一される
南朝の勅使が入京し具体的な和平案が協議された。
南朝側は、北朝の以降により天台座主や寺社の要職に就いたものなどを更迭して南朝方の人間を据えることや、建武の親政において公家や寺社に与えるために没収された地頭色を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め北朝方と対立する。
義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万が一の際の退路を確保するなど紛糾した。
正平統一が成立し、南朝の語村上天皇が帰京すると噂が立つと、各地で南朝方の活動が活発化し、本拠を賀名生から河内を東上し、摂津住吉まで移転する。

尊氏は義詮を京に残し、直義追討のため出陣する。
1352年、直義を駿河、相模早尻で破り、鎌倉へ追い込まれ、降伏する。
直義は鎌倉に幽閉されてる。
翌年、急死する。
病死とされているが、尊氏に毒殺されたとも伝える。

尊氏・直義兄弟は極めて仲が良かったという。
尊氏が岩清水八幡宮に「今生の果報は全て直義に与えて、その身を安穏に御守り下さい」とまで祈願したと言う。
そのため、観応の擾乱は全て兄弟で計画したものというはなしもある。

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