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2005.10.06 足利 尊氏
2代将軍、足利義詮のことを書いたから、初代将軍のことでも書いてみよう。

足利 尊氏

生没年:1305年~1358年
在職期間:1338年~1358年

父:足利 貞氏

母:上杉 清子

正室:(北条)赤橋 登子

側室:
(加子六郎基氏の娘)
越前局

子:
足利 義詮  生没年:1330年~1367年
 室町2代将軍。

      生没年:1337年~1342年

聖王     生没年:1339年~1345年

足利 基氏  生没年:1340年~1367年
 赤松登子との子。正室は畠山家国の娘。
 鎌倉府の鎌倉公方となる。基氏は南朝方の新田義興を滅ぼす。
 また、執事としても当時を補佐していた畠山国清の罷免を求められ、抵抗した国清を討つ。
 公認には一時、興師ありを用い、のち上杉憲顕を管領に復帰させ、上野・越後の守護として関東における足利氏の勢力を固めた。

頼子     生没年:1341年?~1353年
 崇光天皇皇后。贈従一位。

了清     生没年:1343年~1347年
      生没年:1344年~1364年
竹若丸    生没年:?~1333年
足利 直冬  生没年:?~1387年
 尊氏に実子として認められず、直義の猶子となる。

英仲法俊   生没年:1340年~1416年


生誕地は、綾部説、鎌倉説、足利荘説の三説があり、定かではない。
幼名は又太郎。
兄・足利高義がいたが早世したため尊氏に家督を相続することとなっていた。
元服の際、鎌倉幕府執権・北条高時より名をもらい「高氏」と名乗った。

1331年、後醍醐天皇による二度目の倒幕計画が発覚し、笠置において挙兵する。(元弘の変)
高氏は鎌倉幕府からは兵を命じられ、天皇の拠る笠置と、楠木正成の拠る赤坂城の攻撃に参加している。
このときの出兵は父・貞氏が没した直後で派兵を辞退するが、妻子を人質とされ重ねて派兵を命じられた。
このことで高氏は幕府に反感を持つようになったといわれている。
幕府軍の攻撃の結果、天皇はじめ計画にかかわった公家の日野俊基や僧侶など多数が幕府に捕らえられ、後醍醐天皇も隠岐に流される。
幕府は大覚寺統の後醍醐に変えて持明院統の光厳天皇を立てた。

1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、船山上に篭城すると、高氏は西国の倒幕勢力を鎮圧するために名越高家と共に上洛を命じられる。
しかし、名越高家が赤松円心に討たれると、高氏は後醍醐天皇の綸旨を受け天皇方に寝返る。
所領である丹波笹村八幡宮で鎌倉幕府に対する兵を挙げ、近江の佐々木道誉などの御家人を従え京都の六波羅探題を攻め滅ぼした。
上野国の御家人である新田義貞も挙兵し、高氏の嫡子で鎌倉から脱出した千寿王(のちの義詮)を奉じて鎌倉幕府を滅亡させた。
このとき、高氏の側室の子である竹若丸は混乱の最中殺されている。
高氏は鎌倉陥落後に細川和氏、頼春、師氏の兄弟を派遣し、義貞を上洛を上洛させ、鎌倉を足利方で掌握する。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の親政が開始される。
尊氏は官位と所領を与えられ、さらに名を一字賜り「尊氏」と改名する。
尊氏は建武政権では足利家の執事職である高師直、師秦兄弟などを送り込み、弟・足利直義を鎌倉将軍府執権とするのみで自身は役職には就かなかった。
政権とは距離を置いたため、征夷大将軍の宣下を受け、鎌倉で開幕するつもりであったとも考えられる。

後醍醐天皇が北畠顕家を鎮守府将軍に任じて幼い義良親王を奉じさせて奥州鎮圧に向かわせると、尊氏は関東統治を名目に直義に幼い成良親王を奉じさせ鎌倉へ下向させている。



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このころ後醍醐天皇の皇子であり、同じく征夷大将軍職を望んでいた護良親王は尊氏と対立し、尊氏暗殺を試みるが、失敗する。
1334年、尊氏は実子の恒義親王を皇太子にしたいと望む後醍醐天皇の寵姫・阿野廉子と手を結び、護良親王を捕縛し鎌倉の直義の元で幽閉させた。

1335年、信濃で北条高時の遺児・北条時行を擁立した北条氏の残党の反乱が勃発する。(中先代の乱)
時行軍は一時鎌倉を占拠する。

尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官を望むが得られず、勅状を得ないまま鎌倉へ進発する。
後醍醐はやむなく、征夷大将軍の称を与えている。
尊氏は直義の兵と合流し、相模川の戦いで時行を駆逐し、鎌倉を奪還する。

直義の意向もあり、そのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与えはじめ京都からの上洛命令を拒み始める。
また、尊氏は新田義貞を君側の奸であると後醍醐天皇に討伐を奏上するが、逆に義貞に尊良親王を奉じさせて尊氏討伐を命じる。
新田貞義は東海道から鎌倉へ向かい、さらに北畠顕家を南下を始める。
尊氏は赦免を求めて隠居を宣言するが、直義、高師直など足利方が三河など各地で敗走し始めると、尊氏は建武政権に反旗を翻すことを決意する。
尊氏は新田軍を箱根・竹之下の戦いで破り、京都奪還を目指した。
この間、後醍醐に退けられていた持明院統の光厳上皇に懇願し、逆賊の汚名を免れる工作をしたという。
京都奪還の戦いははじめはうまく行っていた。
しかし、京に注がれていたためか奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成、新田貞義に後ろから突かれ敗北する。
このため京都奪還をあきらめ、赤松則村の進言により九州まで下る。

九州では赤間関で少弐頼直に迎えられ、筑前国宗像大社の宮司・宗像氏範の支援を受ける。
宗像退社参拝後、糟屋郡の多々良浜において宮方の菊池武敏を破り勢力を立て直した。
再び京へ東上する途中光厳上皇の院宣を掲げ、西国武士を傘下に集める。

湊川の戦にて新田義貞、楠木正成の軍を破り京都の制圧に成功する。
後醍醐天皇は比叡山に逃れる。

京へ入った尊氏は後醍醐天皇の顔を立てる形で和議の申し入れをする。
和議に応じた後醍醐天皇は光厳上皇の弟・光明天皇に皇位を譲り、建武式目17条を定め幕府の方針を示し武家政権の成立を宣言する。
しかし後醍醐天皇は三種に神器を帯して京都を脱出し吉野へ逃れ、神器を持って南朝を開く。

1338年、尊氏は光明天皇より征夷大将軍を任じられ、正式に幕府を開く。
足利政権において尊氏は政務のほとんどを直義に任せていた。
そのため足利家家臣の高師直ら反直義派と直義派の対立が深まり、観応の擾乱が発生する。
尊氏はあくまで傍観者的立場に立っていたという。
しかし、師直に襲撃を受けた直義が尊氏の屋敷に逃げ込み、師直の兵が尊氏邸を包囲して直義の引退を求める事件が発生する。
それにより直義は出家し、政務を退く。
直義の排除には師直、尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたという説もある。

直義が退くと尊氏は嫡男・義詮を鎌倉より呼び戻し、次期将軍として政務を担当させるべく上京させる。
代わりに鎌倉公方として次男・基氏を下し、東国統治のために鎌倉府を設置する。

尊氏の庶子で直義の猶子となっていた直冬が反乱を起こす。
尊氏は直冬討伐のため中国地方へ遠征する。
すると、直義も京都を脱出し、南朝方に呼応する。桃井直常、畠山国清ら一部の譜代武将たちもこれに従う。
直義軍が強大となり、義詮は京を追われ、尊氏も直義に摂津で敗れる。
尊氏と直義は高師直、師秦兄弟の出家を条件に和睦する。
和議成立後、高兄弟は上杉能憲より護送中に謀殺される。

義詮の補佐として政務に復帰した直義に対して、尊氏、義詮は共に佐々木道誉が謀反を企てたとして出陣する。
しかし実際には、道誉の討伐には向かわず南朝方と和睦交渉をして、元号を南朝のものに統一させる。
ここでは道誉と尊氏、義詮の間に密約があったとされる。
危機を感じ京都を脱出した直義は駿河などで戦い敗れる。
鎌倉に幽閉され、のち急死している。
そのため尊氏による毒殺説がある。

直義の死後、尊氏は後醍醐天皇の皇子・宗良親王や新田義貞の子・義興、義宗や、朝敵免除を受けていた北条時行などの南朝方勢力を各地で撃破する。
関東を制圧後、京都にとって返し奪還する。
その後直冬も一時は京都へ進行するが、結局九州へ去っている。
1354年、京都を一時南朝方に奪われるが、翌年には奪還する。
1358年、直冬討伐を企てるが、その前に京都二条万里小路邸にて死去。享年54歳。

人柄は一時は朝敵となったことを悔やみ、出家を宣言することがあり、合戦においては苦戦した際には必ず切腹すると言い出すなど、一種の躁鬱病があったといわれる。
尊氏が帰依して、後醍醐天皇の冥福を祈るため立てた天竜寺の開山僧・夢窓疎石などには尊氏は高い評価を受けている。
第一に、心強くして、合戦の間身命を賭すべき危機に臨むこと度々に及んだが、笑みを含み、畏怖の色がなかった。
第二に、慈悲はその天性で、人を憎むことを知らなかった。
第三に、心広大にして、ものを惜しく気持ちがなく、金銀も土石のごとく人に与えたという。
また一度謀反したものでも、降伏してくると暖かく迎える寛大さを持っていたともいわれている。
他、能吏は弟・直義や執事の高師直であり、尊氏自身はそれほどのものではなかったとも言われている。

江戸時代や戦前など尊皇の時代では尊氏は逆賊としての評価しかなかった。
が後に「保守勢力を破り新時代を築いた」ということで評価されるようになった。
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