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2005.10.05 足利 義詮
義満を書いたのでその父だった室町2代将軍・義詮のことでも書いてみよう。

足利義詮

生没年:1330年~1367年
在職年間:1358年~1367年

父:足利 尊氏
室町初代将軍。

母:赤橋 登子
 北条久時の娘。鎌倉幕府最後の執権赤橋守時の妹に当たる。

正室:渋川 幸子
 渋川義季の娘。

側室:紀良子
 岩清水善法寺法印・通清の娘。
 
子:
千寿王   生没年:1357年~
 紀良子との子。夭折。

足利 義満   生没年:1358年~1408年
 紀良子との子。室町3代将軍。

足利 満詮   生没年:1364年~1418年
 紀良子との子。幼名は乙若丸。幕閣にあり、常に兄・義満を陰から支える立場にいた。
 自分の室であった、藤原誠子を兄に差し出したという話もある。

清祖
 紀良子との子。




足利尊氏の第三子で嫡男。幼名は千寿王。
幼少期は北条氏の人質として鎌倉に留め置かれる。
尊氏が途中で挙兵に応じて鎌倉幕府に反旗を翻すと、義詮は細川氏らなどの家臣に連れ出され鎌倉を脱出した。
新田義貞に奉じられ鎌倉攻めにも参加した。
建武の親政では叔父である足利直義に支えられて鎌倉に置かれた。
尊氏が建武政権から離反すると、父と共に南朝と戦い、関東統治にも従事していた。

足利家の執事である高師直と尊氏の弟の足利直義の対立が激化し、観応の擾乱が起こる。
高師直のクーデターにより直義が失脚すると義詮は京都へ呼び戻され義直に代わり政務を任されることとなる。
1351年、尊氏が直義派に対抗するために南朝に降伏し、年号を「正平」に統一する正平統一が行われる。




こんにちは!

今日は、目からウロコがガンガン落ちた話をお届けします。

あるメール講座で下のような問題が出題されていました。

──────────────────────────────

これは、本当にあった出来事です。
 
あの“味の素”の社長が言いました。

 「味の素(化学調味料)の売り上げが下降しているぞ!
  なんとか売上が倍増するようなアイディアを出しなさい!」

  優秀な社員が集められ、連日頭を抱えて、試行錯誤。
  結局、実現可能なアイディアは出てきませんでした。

  ある日女性社員が何気なく話したアイディアが採用され、
  本当に売上が2倍になったとさ。

さて、その「アイディア」とは?

※ヒント「味の素が入っている容器」をイメージしてみて。

───────────────────────────────

うーん・・・簡単に売り上げを2倍にする方法。

わからん!!と答えを見て、大笑いしてしまいました。

こんな単純な方法があったんだ!

この発想はすぐに使える!すご過ぎる!と感心しました。


こんな感じで、読んでいるうちにやる気がどんどん出てくる
メール講座でした。

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1352年、南朝の北畠親房や楠木正儀らが京都へ侵攻すると、義詮は京を逃れて近江へ引く。
このため、光厳上皇、光明天皇、崇光天皇の三上皇と廃太子・直仁親王(花園天皇の子、崇高天皇の皇太子)を奪われ、北朝に天皇がいないことになった。
三上皇たちは山城八幡、次いで河内東条に移され、遠く賀名生に幽閉された。
これらは南朝の後村上天皇と北畠親房の策で、北朝を破壊し幕府を困却させようとした企てであった。
義詮は等持院の僧・祖曇を使節として東条に派遣し三上皇以下の還京を交渉したが不調に終わる。
このころが、南北朝期を通して南軍がもっとも有利に幕府との和議を結ぶ絶好の機会であったのだが、南朝は強硬派が主流を抑えていたため、収拾の機会を逃していた。

義詮は観応の年号を復活させ、兵を募って京都を奪還する。
三種の神器の無い状態で新たに後光厳天皇を即位させる。
1353年、足利直冬や山名時氏らにより一時的に京都を奪われている。

1358年、尊氏が没し、義詮は征夷大将軍に任命される。
このころには中国地方の山名氏や大内氏などが向背定まらず、九州地方では壊良親王など南朝勢力が健在であった。
さらに幕府内では仁木義長と細川清氏、畠山国清が対立し、義長は南朝へ降った。
さらに、室町幕府執事の清氏が佐々木道誉の讒言で離反して南朝へ下るなど権力闘争が絶えず、その隙を突いて南朝方が一時京都を奪還するなど政権は流動的であった。
1363年、大内氏、山名氏が幕府に帰服し政権は安定化し始め、南朝とも講和が進んでいた。
1365年、三条坊門万理小路の新邸に移る。
清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任じる。
斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する。
また、訴訟手続きの整備なども行う。
1367年、側室の紀良子との間に生まれた幼少の嫡男・義満を細川頼之に託して、病により死去。享年38歳。

太平記などでは酒色に溺れた愚鈍な人物として書かれている。
が、経歴を見るにはそれなりの才覚はあったような気もするが。




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