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2005.10.01 足利 義持
 足利義教を書いたのでその兄弟で同じ将軍職に就いていた足利義持のことでも書いてみよう。

足利 義持

生没年:1386年~1428年
将軍在職:1394年~1423年

父:足利 義満
 室町3代将軍。

母:藤原 慶子
 安芸法眼の娘

正室:日野 栄子
 日野資康の娘。

子:足利 義量    生没年:1407年~1425年
 室町5代将軍。在職:1423年~1425年。
 1423年に16歳で将軍職を譲られるも、疱瘡をわずらうなど病弱であった。
 1425年、死去。享年18歳。
 一般には大酒食らいで色におぼれそのせいで早死にしたと言うがそんな記述はどこにも無い。


 

室町幕府4代将軍。
1386年、3代将軍・義満の長子として生まれる。
義満との親子関係は険悪であったという。
1394年、9歳で義満より将軍職を譲られる。
が、太政大臣となった義満の在職中は実権が無かった。
1408年、義満死去の直前に後小松天皇が北山第に御成りになった際、義持自身は京都警備番をさせられ、天皇には謁見できず。
義満が寵愛した異母弟の義嗣が天皇に謁見している。このことで一時は義持をのけ義嗣が継嗣となるとも言われていた。

義満の死後、管領・斯波義将らの支持を受けて義嗣を抑え、ようやく地位を保全しえた。
義嗣は母の春日の局と共に北山第を追われている。
1408年、一時は花の御所に住むが、翌年には2代将軍・足利義詮の住んでいた三条坊門邸に移ったと言う。
また、義満が造成した政務中枢とされた「北山第」は鹿苑寺を除きすべて破壊した。
政治は管領を務め宿老として影響を持っていた斯波義将らに補佐され、幕政を守旧的なものに改める。
これによって一度は失われた室町幕府の「武家政権」色を復活させようとしたといわれている。
義満が庇護していた世阿弥を遠ざけ、田楽新座の増阿弥を重用する。




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朝廷から父に対する太上天皇の追号を辞退する。
1411年、朝貢形式に対して反発の声もあった勘合貿易の中断。

1410年、南朝最後の天皇だった後亀山上皇が吉野へ出奔。
1414年、称光天皇即位を不服とし、両統送立の約束を守ることを要求するために北畠満雅の挙兵。
まもなく和解。
同年、斯波義将の嫡子、斯波義重が義持の不興を買い高野山に隠棲

1416年、上杉禅秀の乱
これに関与して、義持に抵抗してきた義嗣を仁和寺、相国寺へ幽閉させ、出家させる。
1418年、義持の命を受け富樫満成により義嗣を殺害。

1423年、将軍職を子の義量に譲り、義持は出家し道詮と号した。
1425年、義量が病死。
義持が法躰のまま幕政をとった。
この間さらに幕府政治の矛盾は激化する
1427年、赤松義則の死後の赤松氏の相続の際、所領を近習の赤松持貞二預けようとすると、赤松満祐が京を出奔し、領国播磨へ下向する。
1428年、後継者を定めないまま死去。享年43歳。
次期将軍の選出は重臣に杜撰な形で一任されることになった。

義持の治世は、懐良親王が制圧していた九州を有力大名の大友氏、大内氏、菊池氏が引き続いて統治していたり、
関東地方の鎌倉公方は半独立国状態となるなと、不安定要素はいくつも存在していた。
しかし、政治的には小康状態が続き、室町時代の中では比較的安定した時代であった。
または、有力守護に左右され印象の薄い将軍とも。
このころが有力守護にとっては全盛期だったところが多い。

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