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2005.09.29 足利 義教
管領、四職のことを書いたので今度は将軍家の人のことでも書いてみよう。
といってもかなり飛んで6代目。

足利 義教

生没年:1394年~1441年
将軍職在位:1428年~1441年

父:足利 義満
 室町幕府3代将軍。室町時代の全盛期を作った。

母:藤原 慶子
 安芸法眼の娘。

正室:
日野 宗子
 日野重光の娘。慣例により、義教将軍就任後に嫁ぐ。
 子女がいなかったためか妹が側室となっている。兄・義資は義教の勘気を受け閉門、殺害されている。

三条 尹子
 正親町三条公雅の娘(姉妹とも)。初めは側室であったが、最初の正室・宗子の死後、正室になったという。
 子女はなく、義教の死後は、将軍・義勝の生母・日野重子の勢力に押された。

側室:
日野 重子
 日野重光の娘。宗子に子供が出来なかったためか日野家が手を回したためとも言われている。
 義勝・義政・義視の母。将軍の母と言うことで勢力を確固たるものとし日野家を盛り立てたという。

小弁殿
 斉藤朝日氏の娘。

子:
足利 義勝   生没年:1434年~1443年
 重子との子。室町7代将軍(在位:1442年から1443年)。
 義教の暗殺により、管領以下の諸大名が擁して、8歳で将軍となる。
 政務は管領大名の合議制で進められたが、翌年赤痢にかかり死去する。

足利 義政   生没年:1436年~1490年
 重子との子。室町8代将軍(在位:1449年~1473年)。
 
足利 義視   生没年:1439年~1491年
 重子との子。仏門に入っていたが、義政に子が生まれず還俗する。
 が将軍になることも無く、義視の子が将軍となっている。

足利 政知   生没年:1435年~1491年
 小弁殿との子。堀越公方となる。




室町幕府3代将軍・足利義満の3男。
初めは義宣と称していたが、「世を偲ぶ」につながることから、自分で義教と改めた。
足利幕府は家督相続者以外は慣例により、仏門に入っていた。
そのため義教も「義円」と名乗り、青蓮院門跡にあった。
大僧正、天台座主とまでなった。

1425年、4代将軍だった兄・足利義持の子である5代将軍・義量が急逝し、義持も後継者を決めないまま没する。
このため当時の管領・畠山満家の発案によって岩清水八幡宮で行われたくじ引きで複数の後継者の中から将軍に選ばれることになった。

兄弟の梶井義承、大覚寺義昭、虎山永隆、義円の4人で争ったとされる。籤引き話はこの4人にはそれぞれ、畠山、山名、細川といった有力者がついていて勢力は均衡していた。
そのため籤で信託という形がとられていた。がこれは出来レースであり、初めから義持の意向があり、義教が当選されることになっていたと言う話もある。義教は前々将軍・義持と同母とされる。
しかし、この当時はまだ卜占が信じられていた時代であり、これは神意であるからとして就任が決まった。

本当に問題に困り、籤で決められたと言う話がここ最近では有力らしい。
籤引きで決められたためか、神意を試すために、古代の盟新探湯を復活させたという話もそれを後押ししているとされる。
このことで就任した義教は籤引き将軍と呼ばれるようになる。

1428年、称光天皇死後の皇位継承問題に手をかける。
政務に着手した義教は父・義満が過去に再現させた将軍親政の再興を目指したと言う。

三宝院満済を政治顧問にし、儀礼の形式や訴訟手続きなどを義満時代のものを復活させる。
鎌倉府の評定衆・引付制度を復活させて管領の権限抑制策を打ち出した。
また、義持の代から中断していた勘合貿易を再開させて財政政策を見直すなど、幕府権力の強化に努めた。

義教は今川氏、京極氏、富樫氏、斯波氏、畠山氏、赤松氏、山名氏などの有力守護大名に対して、その家督に積極的に干渉した。
意を反する四職・一色義貫や伊勢国守護・土岐持頼に対しては暗殺を実行した。

将軍直轄の軍事力である奉公衆の整備などの軍制改革、後南朝問題にもあたる。







1439年、義教の将軍職就任に不満を持ち、独立の気配も見せていた鎌倉公方・足利持氏を関東管領・上杉憲実と結んで自害させる。
関東に覇権を唱えようとして実子を鎌倉公方として下向させようとしたが、これは上杉氏の反対にあって頓挫している。
さらに腹心の大内持世を九州探題に任じて混乱していた九州を平定
伝統的権威を保持する皇室・公家・寺社に対しても強権を発動しさせる
公家の大量処罰・興福寺への武力介入など
1438年、義教の政策に抗議する比叡山僧侶を焼身自殺に追い込み根本中堂を消失させている

義教は幕府権力強化に一定の成果をあげたが、短気で勘気と猜疑心の強かったと言われる義教の性格は、人々の疑心暗鬼と恐怖心を煽っていた。
公家・中山貞親の日記「薩戒記」によれば、1434年当時で義教によって所領没収、遠流、死罪になった公家・神官・僧・女房などの総数は80余名にのぼったという。
また、諸大名に対しても遠慮解釈無く発揮され、その治世は「刃わたる時節」「万人恐怖」と呼ばれ、当時の民衆に恐れられていた。

四職家総領であった赤松満祐は先々代の4代将軍・義持に嫌われ追放されていた。
満祐は義教から勘当、赦免を繰り返され、さらには義教が赤松一族の赤松貞村を重用するようになる。
すると巷ではいずれ満祐から三カ国守護を取り上げ赤松氏に与えるつもりだとうわさされ、また満祐の謀反のはなしが公然と噂されるようになったという。
1440年、足利持氏の残党が遺児を奉じて結城氏朝と結んで下総で反乱を起こす。
これは翌月までの鎮圧した。

1441年、義教は畠山家の家督を畠山持国から畠山持永に委譲させる。
追詰められていた赤松満祐・教康父子は、同年結城合戦戦勝祝宴の名目に義教を自邸に招いた。
このころは多くの大名家・公家が義教を招き戦勝祝宴を催していた。
義教は少数の側近を伴って赤松邸に出かけ、祝宴の最中に暗殺された。
主を失った幕府は混乱し、追っ手を差し向けることも無く、満祐・教康親子は播磨に帰国している。
しかし、同年7月細川持常、山名持豊に追討される。

この後、将軍の権威は著しく失墜し、細川家、山名家の勢力が伸張することになる。
また義教の後、足利将軍の暗殺や追放が多発している。

「新続古今集」の撰集を執奏、多くの幕府歌会や連歌会を催し、音阿弥を重用。
茶人としても名をはせていたそうだ。

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