上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2005.09.28 京極氏
四職の一家、京極氏について書いてみよう。

京極氏

 宇多源氏であり、近江の守護に代々任じられていた佐々木氏の当主である信綱は、四人の息子に近江を分けて継がせた。
 このうち江北にある高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と今日の京極高辻の館を継いだ四男氏信を祖とする一族が、後に京極氏と呼ばれるようになる。
 このときに江南を継いだ三男の泰綱は佐々木宗家を継ぎ、六角氏の祖となっている。
 鎌倉時代は江北六郡の地頭であり、始祖の氏信は鎌倉幕府の評定衆を努め、跡を継いだ宗綱は、幕府が朝廷に対し天皇の譲位を促した際の使者も務めている。
 足利尊氏に仕えた佐々木道誉の活躍により、室町時代は守護大名とな利、四職の一つとして繁栄した。
 応仁の乱の後は家督争いより衰退したが、京極高次、高知兄弟が、戦国時代を生き抜き、外様大名として明治維新を迎え、華族に列せられた。




京極 高秀   生没年:1328年~1391年

父:京極 高氏(佐々木道誉)
 室町幕府の成立に大きく貢献したと言われている。バサラ大名としても有名。

子:
京極 高詮   生没年:1352年~1401年
 一時は六角氏へ養子としていっていたが、京極氏へと戻り後を継ぐ。
 明徳の乱のときの功を上げ、出雲・隠岐の守護に任じられた。
 また応永の乱でも活躍したと言う。

京極 秀満

京極 高久
 近江国尼子郷を与えられている。後に出雲の守護大名の尼子氏の祖となる。 


 1345年、後醍醐天皇を弔う天龍寺の法要に参列していたと言う。
兄の秀綱、次兄の秀宗がそれぞれ戦死したために、三男の高秀が佐々木支流京極氏の継嗣となった。
1361年、佐々木一門の宗家である六角氏の当主・六角氏頼が唯一の跡取りを早世により失ったため、高秀は子の高詮を養嗣子として六角氏に出す。
しかし氏頼は、四年後に新たに亀寿丸(後の六角満高)をもうけ、その翌年には死去してしまう。
このため跡目争いが生じ、細川頼之が管領を務めていた幕府は、高詮に対して、亀寿丸が成人するまでの後見を命じ、六角氏が代々務めていた近江守護へと任じて争いを収めた。
1368年、高秀は評定衆へと加わり、従四位下大膳太夫に任じられる。
1373年、父・高氏の死去により家督を継いでいる。
1377年、六角氏の被官の訴えにより、子・高詮は近江守護職を解かれ、六角氏からも追放される。
当時の幕府内では、管領の細川頼之と前管領斯波義将との間で激しい権力争いが行われており、当時斯波派だった京極家を抑えるために細川頼之が行ったとも言われている。
この一件により高秀と細川頼之との確執は深めてしまう。
1379年、康暦の政変では、美濃の土岐頼康と共に細川頼之の管領罷免を求め近江で兵を挙げる。
将軍・足利義満から追悼令を受けた六角氏と近江で戦う。
そうした中、鎌倉公方・足利氏満も反乱の構えを見せたため、恐れをなした義満は高秀らを許し、高秀は京に上り服従を誓った。
が、その翌日、斯波義政、土岐頼康らが共に大軍で花の御所を包囲し、再び頼之の罷免を迫り、成し遂げる。
1390年、義満の命により、美濃の土岐康行を討つ。
1391年、64歳で死去。
和歌を好み、新千載和歌集、新拾遺和歌集、新語拾遺和歌集などに入集されている。







京極 政経   生没年:?~1508年

父:京極 持清
 京極高光の子。隆数の後を継ぐ。嘉吉の乱に際し、京都の警備や播磨出陣で功を上げた。
 八代将軍・義政の代に二十年にわたり侍所頭人を務め、その間京都の治安を維持した。
 応仁の乱前後の争いでは、娘が細川勝元に嫁いでいたこともあり、常に細川方についていたという。

子:京極 経秀(材宗)


政高ともいう。
父・持清の死後、家督を継いだ兄・勝秀の遺児・童子丸の後見を務めていた。
その死後、自らの子・経秀に家督を継がせようとするが、甥・高清(弟とも)を擁する国人衆によって追放される。
その後争いを繰り返す。
1473年、幕府から正式に北近江、出雲、隠岐の守護に任命される。
1475年、一時的に近江を奪還するが再び追放される。
守護代尼子清貞が地盤を固めいていた出雲に入国する。
政経が出雲に在国している間高清らが近江を領しており、応仁の乱が終わるまで二人の家督が並列していたため1480年に高清の家督が認められている。
1482年、出雲を本拠と定めた。
幕府から、出雲と隠岐において父の代から免除されていた税を要求されるが、寺社本所領の横領を進めていた守護代・尼子経久はそれに従わなかった。
そのため、幕命を受け経久を追放する。代わりの守護代には塩治掃部介を派遣する。
1486年、経久の奇襲により月山富田城を奪回し、京に追われる。
1488年、高清と近江松尾で戦うが敗れ、家臣・多賀経家と共に伊勢梅津へと逃れる。
1490年、十代将軍・義稙から総領として認められ、再び北近江領に攻め入り高清を破る。
1499年、重臣・上坂家信の助成を得た高清によって近江を奪回されている。
佐々木文書では1508年に吉童子丸(孫?)へと家督を譲ったとされるが、1502年、西讃府史では50歳でなくなったとされる。




京極 高清   生没年:1460年~1538年

父:京極 勝秀(京極 持清)

子:
京極 高弘
 
京極 高住   生没年:1508年~1581年
 高慶、高吉ともいう。また高朝とも。
 兄・高広と家督を争い、国人衆らに追われて尾張へと逃れる。
 将軍・足利義昭のために奔走して功があったが、のち織田信長の力が強大化するに従い近江の上平寺城に蟄居してしまう。
 子の高次が信長に仕えている。

(養子:上坂 高景(信光))


持清の末子、または秀勝の子。
幼名は乙童子丸、初めは秀綱と称した。
応仁の乱では東軍に加担。
1470年以降、六角高瀬の支援を得た高清が近江北郡を支配する。
1481年、政経と講和する。
のち、南近江・六角高頼と近江の覇権を賭けて戦う。
一時、家臣・多賀宗直が反乱を起こし甲賀へ逃亡する。
1487年、宗直を討ち取り帰国。
叔父・政経と家督を争う。
1490年、政経が家督とされると、高清は越前・敦賀に逃れる。
政経は国人衆による寺社本領横領を停止できなかったばかりか、幕府奉公衆とも対立し幕府から不信を買う。
1492年、そのため幕府は高清に京極氏の家督とする。
が、足利義稙が細川政元のクーデターで没落し、足利義澄が将軍に就任する。
義澄の計らいにより六角高瀬が近江守護に復帰すると、政経も近江に復帰する。
1499年、重臣・上坂家信を味方につけて北近江を奪還する。
1505年、家信の仲介により政経の子・経秀(材宗)と和解し北近江支配に成功する。
のち、材宗は高清が自害させたとも云われている。
しかし、家信が没すると、その子・信光の専横を極め、国人衆の反感を買う。
次子・高佳に家督を譲ろうとして、浅見氏らの長男高広を擁する国人衆の抵抗に遭う。
1523年、高清、信光は尾張へ追放される。
1528年、浅見氏を逐った浅井亮政を、信光と共に攻めるが、内保川原で敗れる。
晩年は亮政の保護を受け上平寺城で過ごし亡くなったとされるた。

スポンサーサイト

Secret

TrackBackURL
→http://bxneko.blog12.fc2.com/tb.php/115-8e29d210
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。