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2005.09.26 一色氏
四職の赤松氏のことを書いたから、今度は同じ四職といわれた一色氏のことでも書いてみよう。

一色氏

足利氏の一族が三河国吉良荘一色を本拠としたのに始まる。
足利泰氏の五男・公深が吉良荘一色に住し、地名を取って一色と称したという。
元は九州のほうに勢力を伸ばそうとしていたが失敗している。
室町幕府が創立されると、若狭、丹後を領有した。
四職家の一つとして権勢を奮い、一色氏の最盛期を迎えた。
しかし、力をつけすぎたため室町幕府の六代将軍・足利義教のときに一色家当主は殺害される。
その上、若狭武田氏の攻撃を受けてしまう。
その後、一色義直が八代将軍・足利義政の信任を受けるが、応仁の乱で若狭武田氏との反目から山名宗全に与して敗れてしまう。
そのため次第に衰退の一途をたどるようになる。
戦国時代に入ると若狭の武田氏と抗争を続けたため、さらに一色氏の勢力は衰退してしまう。
そして一色義道の代、織田信長の命を受けた明智光秀と細川藤孝の軍の侵攻に遭い、義道は殺害されてしまう。
その子・一色義定や、弟の一色義清が継いで織田軍と懸命に戦ったが、1582年に共に殺害されている。
これにより、一色氏は滅亡している。
関東に鎌倉公方の御一家として幸手城主・一色氏がおり、古河公方の終焉まで仕え、後には旗本や水戸藩士として続いたという。
しかし17世紀半ばの頃には断絶したという。


一色 満範   生没年:?~1409年

父:一色 詮範

父とともに明徳の乱で軍功を示し幕府内での一色氏の地位を高め、丹後守護職にも補任された。
父とともに建部山城を築城し、丹後国を地盤とした。
応永の乱では大内弘茂を討ち滅ぼし、幕府中枢の地位を確固たるものとした。
丹後のほか、三河国なども治め、3カ国を有する有力大名となった。
父・詮範が死去すると、一色領を預かっていた三河代官・小笠原明鎮が叛く事件が起こった。
満範は直ちに三河へ進撃しこれを撃破した。





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一色 義貫   生没年:1400年~1440年

父:一色 満範

1409年、父・満範の死により家督を継ぐ。
兄・持範との間に確執が生じ、一時は混乱した。
結局講和し、丹後・若狭は二分割された。
このことも一色家を衰退させる第一歩ともいえた。
4代将軍・足利義教時代から仕え、侍所を務めた。
1418年、山城の守護を任じられ、ついで若狭国、丹波国そして山城の3カ国を兼ねる有力守護大名となった。
武功においても伊勢国の北畠満雅を討ち、1427年には出奔した赤松満祐の討伐においても活躍している。
その功績により、四職のひとりとなって幕政に参与した。
6代将軍・足利義教の代になると、供奉を放棄するなど次第に対立していく。
一時は幕政から遠ざけられていた。
管領の畠山満家らの仲介もあって、義貫は再び幕政に復帰。
1440年、関東で起こった結城合戦に際して、義教の命で大和国の越智氏を討伐のために出陣する。
義貫は永享の乱で幕府に対して挙兵した足利持氏の残党を匿った罪を問われ、土岐頼持と共に義教から追討を受ける。
武田信栄に馬腹を攻められて敗北。
同年、大和信貴山に竜門寺で一族と共に自害して果てた。
享年41歳。
法号は安養寺泰雲。


一色氏にはそこまでの活躍をした人材はいない。
しかし、戦に関してはそこそこの武功は立てている。
それによって幕府内での地位を確立させたが、その内部ではうまく行っていないようだ。
幕府内のごたごたに巻き込まれがちで、それにより四職までなりながらもすぐに衰退している。
運がなかった家系なのかな。
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