上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2005.09.24 赤松氏
三管領については書いたので、今度は四職のほうを書いてみよう。
まずは赤松氏から。

四職
 侍所の所司に任じられる赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の主要な4家いう。
 土岐氏をいれて五職とする説もある。
 応仁の乱以後皆衰えて空職となった。


赤松氏
 村上天皇の皇子・具平親能の子・師房が源氏姓を賜り、師房五世の孫・師季が播磨に配流され、同国作用庄に土着したのが始まりとされる。
 師季の子・季房の代になって勅免され、播磨を領有して白旗城に拠って赤松氏を名乗るようになったという。
 しかし、これには異論があり、季房-季則-頼範-則景-家範と続いた家範の時に初めて赤松氏を名乗ったとする説が有力である。
 作用庄地頭職則景の末子ということで、作用庄の最南端の赤松村を名乗りとするのも妥当性があるためである。
 赤松則村が建武政権への不満から、足利尊氏の離反に協力した功で播磨守護となってより強大となった。
 しかし嘉吉の乱以後衰えた。
 赤松宗家が滅んだ後、遺臣が禁闕の変で後南朝に奪われた三種の神器を取り返したことで満祐の弟・義政の孫・政則を取り立てて、赤松氏再興を願い出る。
 許されて旧勢力を取り戻すも、戦国大名として基礎を固めるまもなく、義祐のときに家臣・浦上氏と不和になり信長に通じたが、浦上宗景と戦って没落する。
 則房は秀吉に従い、播磨置塩一万石を安堵され、四国征伐に従軍している。
 ついで、子・則英は関が原の戦いに西軍に属し、佐和山城に篭城したが落城し、逃げ延びた京都で自害している。




赤松 則村   生没年:1277年~1350年

父:赤松 茂則

子:
赤松 範資   生没年:1280年?~1351年
 鎌倉幕府倒幕や建武の新政などで父に従い、戦っている。
 父の没後、家督をついで当主となる。
 観応の擾乱では尊氏側、つまりは高師直側に与して直義と戦う。
 1351年、京都堀川七条にて急死する。法号は世範。
 後継には弟の則祐が選ばれている。範資の系統は七条氏として相続されたという。

赤松 貞範   生没年:1306年~1374年
 号を春日部雅楽助という。
 1326年頃、摂津国・長洲荘の荘官を兄・範資と共に務めたという。
 1335年、中先代の乱を平定するため関東に向かう足利尊氏軍に加わる。
 この後、尊氏が反新田義貞を叫んで挙兵し、それを討つために義貞が出陣した。
 三河の戦いに勝ち、伊豆へ向かう義貞軍を尊氏軍が箱根で迎撃した戦で、竹下に展開していた貞徳の軍は三百騎で、脇屋義助七千騎に突撃を敢行した。
 これを見て義貞方の大友貞範が寝返り、戦況はひっくり返り尊氏軍が勝利した。
 観応の擾乱時に姫路城を築かしめ、備後の足利直冬に備えた。

赤松 則祐   生没年:1314年~1372年
 則村の没後、遺領は長子・範資に与えられたが、まもなく没する。
 則祐の武勇伝は多く、熊野や十津川では、護良親王を守って善戦している。
 父円心に従い、高田兵庫助頼重との戦いで後方から撹乱を実行、最上山城に突入し勝敗を決めた。
 以後もかなりの武勇を上げている。
 そのため幕府は長男・貞則の死後、赤松家総領を則村の三男・則祐に指定した。
 以後、則祐の系統が宗家として隆盛に向かう。

赤松 氏範
赤松 氏康




則村は法号を円心という。
元弘・建武の争乱にあたり、護良親王の令旨を受けてこれに応じ、後醍醐天皇方として戦う。
初め、一族の高田氏が内通しようとしたために兵を動かし、西条山城にて戦い、その菩提寺である了宅庵にて自害に追い込んだ。
その後、六波羅探題の命を受けた備前の守護・加持氏が兵を出すが、その先発隊である伊藤氏と三石城で戦い、その盟主である伊東惟群を服従させる。
これを西国幕府軍の備えとして三石城に残し東上を開始した。
1333年、幕府討伐軍を破った赤松軍は一気に京都市街へ雪崩れ込むが、六波羅探題の猛攻に遭い敗退。
山崎に陣を敷いた則村は夜襲・兵糧攻めに持ち込む。
この六波羅支援に赴いたのが名越高家と足利尊氏であった。
しかし名越高家は乱軍の中、則村の配下の佐用範家によって討ち死にしたという。
尊氏は丹波の所領へ赴き、天皇方へ寝返った。これにより六波羅探題は壊滅し、鎌倉幕府も程なく滅亡する。
その戦功に対して恩賞が佐用庄のみであった。程なく播磨守護職も解かれてしまう。
また、護良親王が失脚すると、則村の立場は奪われ赤松へ帰国する。
建武の新政は早くも破綻を見せ始め、不満を募らせる御家人が増えて、足利尊氏の反逆にすかさず応じた。
則村は尊氏の西下した後も白旗城をよく守り、尊氏の東上に際しては、これを室町に迎え、楠木正成を湊川に破っている。
この軍功によって、室町幕府が成立すると、則村には播磨守護職が、長子範資には摂津守護職が与えられ、同氏は一躍山陽道の要地を押える有力守護にのし上がった。
赤松則村の弟に楠木正成の姉が嫁いでいたので、正成から見れば義兄弟ということになるらしい。



金利0%時代の救世主!FX(外為証拠金取引)で安心ラクラク資産運用。

年利20~40%で安全に資産が増えていく方法、教えます!

現在、私のFX口座は年利32%以上で安定して増えています。

詳しくはラクラク家計の秘術 で見てください。証拠も載っていますヨ。



赤松 満祐   生没年:1381年~1441年

父:赤松 義則
子:赤松 教康

生年には1373年という説もある。
義則が没すると、満祐が家督を継いだ。
1427年、足利義持が満祐の所領を没収し、赤松持貞に与えようとすると、満祐は京都を出て出奔して領国の播磨へ下る。
追討令が出されるが、翌年に義持は不義密通が発覚したため持貞を自殺させる。
また、管領の畠山満家の仲裁により、満祐を赦免された。
やがて、満祐は入京し、入道して性具と号した。
和歌や連歌をよく詠み、『新古今和歌集』にも収録されている。
次の将軍・義教は将軍家の権力を回復しようとして、専制政治を行う。
この頃は一揆が多数発生しており、その対応に満祐は追われていた。
満祐の弟・義雅が義教の怒りを買い全所領を没収される。没収領地の一部は義教が寵愛していた赤松貞村に与えられた。
また有力守護大名家への介入を策し、斯波氏・畠山氏・京極氏・山名氏などの家々でも義教の意のままに左右されていた。
また一色義貫、土岐持頼ら守護も討たれ、満祐も討たれるであろうという噂が広まり、満祐は機先を制した。
すなわち、満祐は、結城合戦平定の祝賀と称して、将軍義教を自邸に招き、宴たけなわを見計らって殺害したのである。
いわゆる嘉吉の乱である。
満祐は城木山城によって、細川および山名ら幕府軍を迎える。
が、城は落城、満祐自身は自刃。享年61歳とされる。
嫡男則康は伊勢へ逃亡するも北畠教具に殺害される。ここに赤松宗家は滅んだことになる。

スポンサーサイト

Secret

TrackBackURL
→http://bxneko.blog12.fc2.com/tb.php/111-e0cd3260
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。